Union Station
パラマウント・ピクチャーズ配給
1950
本当にいい映画なんて10本に1本くらいだね
ウィリアム・ホールデン
Synopsis
列車の中で不審な行動をとっている男2人組、そのうちのひとりが拳銃を隠し持っていることを目ざとく見つけたジョイス(ナンシー・オルソン)は車掌に不審人物を報告するが、まともに取り合ってもらえない。結局、中央駅の鉄道警察に連絡することになった。鉄道警察の刑事カルホーン(ウィリアム・ホールデン)は、最初はジョイスの警告に懐疑的だったが、男たちがコインロッカーに隠した鞄から市の有力者ヘンリー・マーチソン(ハーバート・ヘイズ)の盲目の娘ローナの持ち物が発見され、事態は一転する。カルホーンと市警察のドネリー警部(バリー・フィッツジェラルド)が、ジョー・ビーコム(ライル・ベトガー)を首領とする誘拐犯グループを追跡する。
Quote
ドネリー警部:次の列車は何時だ?
刑事:もうすぐ来ます
ドネリー警部:事故に見えるように始末しろ
Production
原作は、サタデー・イブニング・ポストに連載され、その後単行本として出版された「Nightmare in Manhattan」である。原作者のトーマス・ウォルシュ(1908 – 1984)は、ボルチモア・サン紙の記者を経て、ミステリー作家になった。「ブラックマスク」などのパルプ雑誌で数多くの短編が発表されている。「Nightmare in Manhattan」はウォルシュの初の長編作品で、エドガー・アラン・ポー賞を受賞している。彼の作品では、他にも「The Night Watch」が1954年に『殺人者はバッヂをつけていた(Pushover, 1954)』として、リチャード・クワイン監督、フレッド・マクマリー主演で映画化されている。
脚本はシドニー・ベーム(1908 – 1990)が担当した。ベームはフリッツ・ラング監督の『復讐は俺に任せろ(The Big Heat, 1953)』やアンソニー・マン監督の『サイド・ストリート(Side Street, 1950)』、やはりルドルフ・マテ監督の『地球最後の日(When Words Collide, 1950)』など、この1950年代前半に注目を集める作品を多く手がけていた。
監督と撮影監督
ルドルフ・マテ(1898 – 1964)は、カール・ドライヤーの『裁かるるジャンヌ(La Passion de Jeanne d’Arc, 1928)』のクロースアップや『吸血鬼(Vampyr, 1932)』の悪夢のようなショットを創造したカメラマンとして映画史で特別な位置を占めている。あるいは『生きるべきか死ぬべきか(To Be Or Not To Be, 1942)』でキャロル・ロンバードの最後の輝きを見事にとらえ、『ギルダ(Gilda, 1946)』でリタ・ヘイワースの躍動を撮影したカメラマンでもある。そしてフィルム・ノワールのなかでも最も鬱な作品の一つ『都会の牙(D. O. A., 1949)』を作り上げた監督でもある。カメラマンから映画監督に転向した者のなかで(すくなくとも当初は)比較的成功した数少ない映画人の一人だ。
「カメラマンが映画監督に転向するのは、易しいことではないが、それを一足飛びに軽々やってのけた者が3人いる」と、1949年8月号の「アメリカン・シネマトグラファー」が述べている。ジョージ・スティーブンス、テッド・テツラフ、そしてルドルフ・マテである。確かにマテはこの時期に実に小気味よく鮮やかな作品を多く手がけているが、決して順風満帆だったわけでもない。彼の作品の多くは独立プロダクションの非常に不利な環境で製作された、スター不在の低予算映画であった。『武装市街』の直前に監督した『ノー・サッド・ソングス・フォー・ミー(No Sad Songs For Me, 1950)』は、非常に評判のよいメロドラマであったにも関わらず、興行的にも振るわなかった。製作途中で脚本のハワード・コッホが赤狩りのブラックリストに載り、公開時には様々な摩擦があったようだ。
その監督のもとで撮影の指揮をとったのがダニエル・L・ファップ(1904 – 1984)である。ファップはサイレント期からパラマウントの撮影部に所属し、1940年頃に撮影監督に昇進した。『ウェスト・サイド物語(West Side Story, 1961)』と『ワン・ツー・スリー(One, Two, Three, 1961)』でカラーと白黒、両方のアカデミー撮影賞にノミネートされ(当時はカラーと白黒のそれぞれに賞が与えられていた)、『ウェスト・サイド物語』でオスカーを受賞している。
『武装市街』は、実にロケーション撮影が多い作品だ。原作の舞台はニューヨークだが、映画ではシカゴに移されている。ところが実際のロケーション撮影はそのほとんどがロサンジェルスで行われている。中央駅(ユニオン・ステーション)は、ロサンジェルスのユニオン・ステーションを使用して深夜に撮影が行われた。ルドルフ・マテが2週間の撮影期間を有効に使うために、深夜零時に出演者、撮影スタッフを駅に集合させ、朝の8時まで撮影を行っていたとロサンジェルス・タイムズに報道されている。サンタ・クラリタのソーガス駅は劇中に登場する「ウェストハンプトン駅」として使用されている。
いくつかの印象的なシーンはシカゴでロケーション撮影が行われている。誘拐犯の一人、ガスを「エル(高架鉄道)」で追跡するシーンは、シカゴのストックヤード支線を使用しているようだ(車両内部の撮影はロサンジェルスのパシフィック電鉄という説もある)。このストックヤード支線はその名のごとく家畜の集積場に通じており、ガスはこの集積場に逃げ込むのである。ラストの地下抗での銃撃戦は、シカゴトンネル会社が敷設した地下貨物線でロケーション撮影が行われている。この謎めいた地下鉄道は、貨物のためだけの狭軌線で、一般貨物、郵便、石炭などをシカゴ市内に配送するビジネスを展開しようとしたが利益を上げることができず、1959年に廃業した。
俳優たち
主演のウィリアム・ホールデン(1918 – 1981)は、今でこそハリウッドのスタジオ黄金期を代表するスターの一人ととらえられているが、1940年代の彼はまったく機会に恵まれていなかった。デビュー作「ゴールデン・ボーイ(The Golden Boy, 1939)」とそれに続く『我等の町(Our Town, 1940)』で華々しいスタートを飾ったが、時代は第二次世界大戦に突入、彼は陸軍航空軍に配属され、訓練用映画などに出演していた。戦後は引き続きパラマウントの契約下で映画に出演していたが、主演を得られず、どの映画も決して良い出来ではなかった。この時期の彼はアルコール依存症がひどくなり、結婚も破綻しかけていたという。
その状況を見事に打破したのが『サンセット大通り(Sunset Boulevard, 1950)』だった。ビリー・ワイルダーとチャールズ・ブラケットの脚本は「すべての登場人物が日和見主義者(ナンシー・オルソン)」という桁外れな異様さに満ちている。極めてシニカル、見方によっては自己撞着的なこの作品をバラバラにならないようにつなぎとめたのが、グロリア・スワンソンとウィリアム・ホールデンの演技だった。パラマウントは、ウィリアム・ホールデンとナンシー・オルソンを『サンセット大通り』の後もペアを組ませて出演させており、『武装市街』はこのペアの二作目にあたる。ちょうど、同時期にアルフレッド・ヒッチコックが『見知らぬ乗客(Stranger on a Train, 1951)』のガイ・ヘインズ役にウィリアム・ホールデンを所望していたらしいが、結局流れてしまった。
当初、カルホーン刑事の役にはジョン・ルンドやアラン・ラッドも検討されていた。
相手役をつとめたナンシー・オルソンは、パラマウントの契約俳優で、彼女も『サンセット大通り』がキャリアの最初の転換点だった。1960年代にディズニー・スタジオに移籍、『ポリアンナ(Pollyanna, 1960)』、『うっかり博士の大発明/フラバァ(The Absent-Minded Professor, 1961)』などの作品に出演している。
ドネリー警部には、『裸の町(The Naked City, 1947)』で落ち着き払って犯人を追い詰めていく警部を見事に演じたアイルランド出身のバリー・フィッツジェラルド(1888 – 1961)が選ばれた。『武装市街』では極端なまでのアイルランド訛りでまくしたてて、一見無害のようにみえるが、恐ろしく冷血な酷吏を巧みに演じている。
誘拐犯グループの首領ジョー・ビーコムには、ライル・ベトガー(1915 – 2003)が抜擢された。生涯を通じてサスペンス、アクション、西部劇で「胸の悪くなるような悪役」を数多く演じた俳優だ。1950年に『No Man of Her Own (1950)』で映画初出演。『武装市街』は二作目だが、計算高く、冷酷無比な悪役として強烈な印象を残している。『地上最大のショウ(The Greatest Show on Earth, 1952)』の象使いのクラウスの演技が有名。その他にも『男の魂(The Sea Chase, 1956)』、『OK牧場の決斗(Gunfight at the O.K. Corral, 1956)』などでジョン・ウェインやバート・ランカスターの敵役を演じている。
そのビーコムの情婦を演じたのはジャン・スターリング(1921- 2004)だ。1937年からブロードウェイの舞台に立ち、1947年の『タイクーン(Tycoon, 1947)』で映画デビューした。『ジョニー・ベリンダ(Johnny Belinda, 1948)』、『ミステリー・ストリート(Mystery Street, 1950)』などに出演、1951年にビリー・ワイルダー監督の『地獄の英雄(Ace in Hole, 1951)』でカーク・ダグラスの妻の役として優れた演技をしている。『紅の翼(The High and the Mighty, 1954)』でアカデミー賞にノミネート、ゴールデン・グローブ賞を受賞している。
音楽
ハインツ・ロームヘルド(1901 – 1985)は主に1930年代のユニバーサル・ホラー映画と強く結びついて知られている音楽家だろう。4歳で神童と呼ばれ、ヨーロッパへ留学、ベルリンでブゾーニやエゴン・ペトリに師事、23歳でベルリン・フィルとピアノ奏者として共演している。その後、アメリカに帰国し無声映画音楽の劇場監督をしていた。ユニバーサルの『オペラ座の怪人(The Phantom of the Opera, 1925)』の音楽を演奏しているときに、鑑賞しに来ていたカール・レムリ・シニアが感動し、そのままユニバーサルに重役待遇で迎えられる。一度はドイツに派遣され、そこで音楽監督をしていたが、ナチスの台頭とともに帰国した。『透明人間(The Invisible Man, 1933)』や『黒猫(The Black Cat, 1934)』の音楽で知られるが、『西部戦線異状なし(All Quiet on the Western Front, 1930)』のようにクレジットされていない作品も多い。『風と共に去りぬ(Gone with the Wind, 1939)』のアトランタ炎上のシーンの音楽もロームヘルドが担当しているが、クレジットされていない。『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディー(Yankee Doodle Dandy, 1942)』でアカデミー賞を受賞、その後も『上海から来た女(The Lady from Shanghai, 1947)』などで記憶に残る音楽を担当、『ルビイ(Ruby Gentry, 1952)』のテーマ曲などを残している。
Reception
公開時は全般的に好評だった。
エキサイティングだ Photoplay
しかし、この作品がもつ暗鬱なシニシズムを問題にする批評家も少なからずいた。
この映画はメディアでなかなか好評を博しているようだ。男が牛の群れに踏み殺されたり、警察がひどいやり方で情報を引き出したりする嫌な場面などに特に異議がなければ、そういう評価にもなるだろう。Focus
物語の展開は速いが、今までの映画と大して代わり映えのしない話、という評価はニューヨーク・タイムズ。
いったん誘拐されたことが明らかになると、よくある話の展開に沿って進み、これまた代わり映えのしない定石通りの大団円を迎える。New York Times
映画の舞台となったのはシカゴだが、ロケーション撮影は前述のようにロサンジェルスとシカゴの両方で行われている。シカゴ・トリビューンは市内での撮影については全く触れていないが、ロサンジェルス・タイムズの映画評論担当、フィリップ・K・シューアーは二つの都市がハイブリッドされた光景を目ざとく発見している。
実際、映画の中のかなりの数のシーンが、ここロサンジェルス(あるいはそれにそっくりな場所)で撮影されている。だから、この町のシーンの中に、シカゴの高架鉄道や家畜集積場が突然現れると、ロサンジェルスっ子の我々はちょっとびっくりしてしまう。Los Angeles Times
『武装市街』は1950年の7月にはすでに最終編集を終わっていて、プレビューが行われている。業界紙のVarietyなどは7月にすでにレビューを掲載していたが、パラマウントは一般公開を9月まで延期した。これは、やはり同じホールデン=オルソンのコンビの『サンセット大通り』が前評判がすこぶる良く、そのヒットを先にやり過ごしてから、話題が冷めないうちに公開しようという目論見があったのだろう。
「興行収入は冴えなかった」、「映画はヒットしなかった」と言われるが、興行成績は1,425,000ドル、1950年の80位に入っており、決して悪い成績ではない。『サンセット大通り』が2,350,000ドルで29位だったことを考えると、「同じ柳の下の泥鰌」をねらった成果はそれなりにあったのではないかと思われる。
作家主義的な見地から見たとき、ルドルフ・マテの存在は見過ごされがちだ。『都会の牙』で原爆の恐怖とジャズの熱狂、『地球最後の日』で地球の滅亡、と1950年代をリードするテーマの作品を監督していたにも関わらず、前世紀では取り上げられる機会は少なかった。『武装市街』も当然パラマウントのライブラリのなかに埋もれてしまっていた。
カール・マセックは悪役ジョー・ビーコムを通して『武装市街』の「無力感」を論じている。
凡人から悪辣な誘拐犯へ変貌したジョー・ビーコム、この男が人間性を失っていった過程こそ、フィルム・ノワールに見られる無力感の特徴をよく表しているといえる。ただ単に犯罪者を捕まえるということ以上に、この映画にはシニカルな視点が宿っている。警察が誘拐の容疑者から情報を引き出すときに、本当に殺す寸前まで脅して吐かせるというやり方も、まるで通常の警察業務かのごとく描かれている。『武装市街』のプロット自体はたいして目新しくもないが、命は安く、秩序を守るためにはここまで破壊的な暴力が必要なのかというシニカルさこそ、フィルム・ノワール観を図らずも体現しているだろう。カール・マセック
多くの映画ファンには、この時代のハリウッド映画には比較的珍しい「鉄道映画」として楽しめる側面もある。
Analysis
カルハーン/キャラハン
『武装市街』における警察の暴力的な手法の描写は、Focus誌の評者やマセックも指摘しているように、当時の娯楽映画に登場するシーンとしては暗澹としたシニシズムをはらんでいる。また、この描写が『ダーティハリー(Dirty Harry, 1971)』でのキャラハン刑事の言動の描写に相通じるものがあるという指摘も多くなされている。ウィリアム・ホールデンが演じたのがカルハーン刑事(Calhoun)、クリント・イーストウッドが演じたのがキャラハン刑事(Callahan)と、アイルランド系の酷似した姓であるのも、単なる偶然以上のものがあるかもしれない。しかしこの二作品には決定的な相違がある。
『ダーティハリー』は警察全体としては現行の法に則っているにも関わらず、ハリー・キャラハン一人が逸脱した行動をとっている(アンチヒーロー)という設定だが、『武装市街』では、全速力で走ってくる機関車の前に容疑者を突き出して自白を強要するのがまるで日常業務であるかのように、組織全体でごく自然に行われているのだ。
アメリカ国内での警察による容疑者や一般市民への過剰な暴力の問題は、最近になって現れたわけではない。自白の強要や違法な捜査は常に問題になっていた。19世紀から「サード・ディグリー」と呼ばれる、暴力や苦痛を伴う尋問方法がごく一般的に行われていた。殴る、蹴る、水攻め、ゴムホースによる殴打、といった身体に直接痛みを与えるものから、睡眠遮断、騒音や光などといった拷問の手法もとられている。1929年にフーヴァー大統領によって設置されたウィッカーシャム委員会は、国内での法の遵守の状況を調査するのが目的だったが、その調査報告書には取り調べにおける「警察の無法性」が全国に蔓延していることが記されていた。このような警告は現場の警官や刑事たちに受け入れられるわけもなく、警察による乱暴な取り調べはその後も続く。1946年にシカゴで起きたリップスティック・キラー連続殺人事件(フリッツ・ラング監督の『口紅殺人事件(While The City Sleeps, 1956)』のモデルとなった事件)での容疑者ウィリアム・ヘイレンズの取り調べは、その非人道的な暴力性に言葉を失ってしまう。取調官たちはヘイレンズが意識を失うまで暴力を振るい続け、食事、水分を与えず、精神科医は令状なしで自白剤を投与し、さらには麻酔なしで腰椎穿刺をする、という非道の極みを行った。これはヘイレンズが後に、彼の自白は強要されたもので、自分は無実であると主張し、幾度も再審を請求する中で明らかになった。
フィクションのなかでこのような警察の暴力を「正当化」するためには、ある種の仕掛けが必要になる。まず、警察のやっていることが相対的に薄まるように、犯罪者は残虐さが際立ってなければならないし、観客が同情を微塵も感じないほど「卑劣」な人間でなければならない。『武装市街』の誘拐犯の首領、ビーコムはこの点において申し分ない。実際に尋問でひどい目に合うのは共犯の男だが、観客にとって悪の頂点は主犯のビーコムである。誘拐した盲目の女性に対してだけではなく、仲間や情婦に対しても何の人間らしい感情がない、いざとなれば身を守るために、情婦を撃って逃走することもできるほど、悪辣な人物に仕上がっている。この「卑劣さ」は『ダーティハリー』の悪役、スコルピオにも顕著な特徴だ。だが、スコルピオの卑劣さは「自らの人権を主張する」というかたちになって現れていて、『武装市街』の時代とは大きく違う政治性を帯びている。
警察の暴力を正当化するもう一つの仕掛けは、無実の人間の命がかかっている、という状況を作り出すことだ。人質が残虐な男によって今にも殺されそうだ、という切羽詰まった状況を打開するためには、「多少の荒っぽい捜査は仕方ない」と観客に思わせることが必定である。『武装市街』では、盲目の女性ローナがその役割を果たしている。彼女がそのハンディキャップがゆえに自力で逃げ出すことがより困難になっていて、そのうえビーコムはサディスティックにその状況を楽しんでいるのだ。
プロダクション・コードは、法が破られることについては非常に敏感だったが、一方で法がどのように振舞うべきか、という点についてはいささかあいまいだった。とは言え、1930年代のハリウッド映画は警官を若干「愚か」に描くことはあっても、シンパシーに欠ける存在として描くことは稀だった。それに変化をもたらしのは、やはり第二次世界大戦であっただろう。1945年を境に、警察の「モラル」については疑問を呈するような物語がしばしば現れるようになっている。『死の接吻(Kiss of Death, 1947)』では、その分析でもみたように、警察、司法は「無能」ではないが、「正義」に関する根本的な何かが欠落している。1950年代に入って、私利私欲に走る悪徳警官が描かれるようになる一方で、警察の組織としての乱暴さも見え隠れするようになる。
オットー・プレミンジャー監督の『歩道の終わるところ(Where the Sidewalk Ends, 1950)』やニコラス・レイ監督の『危険な場所で(On Dangerous Ground, 1951)』には捜査において過剰な暴力をふるう警官が登場する。また『武装市街』の脚本を担当したシドニー・ベームは、フリッツ・ラング監督の『復讐は俺に任せろ』でも脚本を担当し、警察の組織に深く浸透した汚職を描いている。しかし、警察が組織的に人権を無視した捜査を行っていることを淡々と描いた作品は少ない。『武装市街』はまさしくその最も早い例の一つである。
プロダクション・コードの補足事項に、映画で誘拐事件の扱う際に守るべき規則が比較的詳細に記述されているのは興味深い。これは、1932年に起きたリンドバーグ愛児誘拐事件の影響が大きい。この誘拐事件では、ニュース映画を含むメディアによる報道が過熱したうえに、結末が悲劇であった。当時のカトリック教会を含む保守派は、このメディアの報道合戦に眉をひそめ、ハリウッドが誘拐事件をネタに映画を製作するだろうと警戒していた。多くの州の検閲委員会は、はっきりと誘拐事件をテーマにした映画には反対していた。これが影響して、プロダクション・コードに誘拐事件の扱いについて補足事項が記載されたようである(1938年)。具体的には、次の5点である。
(a) 誘拐は物語の主題であってはならない。
(b) 誘拐されるのは子供であってはならない。
(c) 誘拐犯罪の詳細は描写されてはならない。
(d) 誘拐犯は犯罪によって利益を得てはならない。
(e) 誘拐犯は罰を受ける。
『武装市街』は、(b)から(e)についてはクリアしている。(a)については、決してクリアしているとは言い難いが、運用において融通をきかせたのであろう。ちなみに脚本のシドニー・ベームは、リンドバーグ愛児誘拐事件当時、ウィリアム・ランドルフ・ハーストの「アメリカン・イブニング・ジャーナル」で記者をしており、リンドバーグ家の前でメディアの熱狂の渦の中にいたようである。
暴力の正当化
前述したように、実際の警察権力はサード・ディグリーを用いて容疑者から自白を引き出すなど手荒な捜査をしていた。ところが、第二次世界大戦前、劇映画というフィクションでは、一部の例外を除いてそのような手荒な捜査は描かれることがなかった(あるいは示唆にとどまった)。何かが第二次世界大戦を期に変わったように思われる。
フィクションのなかで、警察権力による暴力の正当化する際の仕掛けは、そのまま戦時中の連合国によるプロパガンダ、ナチズムに対する憎悪を扇動する仕掛けに重なるように思われる。
そのナチズムに対する仕掛けが最もはっきり表れている例としてマイケル・パウエル=エメリック・プレスバーガー監督の『老兵は死なず(The Life and Death of Colonel Blimp, 1943)』を挙げてみたい。一人の将校を通して見た、この一見ノスタルジックな大英帝国の年代記には、当時世界で進行していた暴力の当事者としての正当化(プロパガンダ)が仕込まれている。特にそれがはっきりとあらわれるのは、ナチスドイツを逃れてイギリスに亡命してきたテオのセリフだ。
クライブ!これはもう紳士同士の戦争ではないんだよ!今回ばかりは、君たちは君たちの存在そのものを脅かす敵と戦っているんだ。その敵とは、人間の脳によって創造された最も悪魔的な思想なんだ。それがナチスなんだ!テオ 『老兵は死なず』
自分たちの存在そのものを脅かす敵、すなわち過去の「ゲームの規則」とはかけ離れた、卑劣で残虐な手法を平気で使う敵と戦うためにはどうするのか。それもテオは明晰に述べている。
クライブ!ナチスのように卑怯なやり方でやりかえすのはフェアじゃない、といって、ここで負けてしまったら、それこそ未来は「ナチスのやり方」しか地上に存在しなくなってしまうんだぞ!テオ 『老兵は死なず』
これは前述の警察暴力の正当化にあらわれる「卑劣な悪」によって「私達の純粋な存在が脅かされている」、だから「蛮行、卑怯と呼ばれようが力づくで解決する」というロジックそのものと言えないだろうか。これは、当時の米国の警察がそのような論理で動いていたかどうかが問題なのではない。ハリウッド映画、さらに言えば一部のフィルム・ノワールがこのロジックをナラティブのなかに抱えていることが、特筆すべきことなのだ。
『死の接吻』が「法」のモラルの曖昧さを描こうとしているのであれば、『武装市街』は既に崩壊しているモラルを、異なったロジックで正当化して見せている。その歪な物語の舞台として、ロサンジェルスのようでもあり、シカゴのようでもある、「ハイブリッドな都市」が登場する。
過去のない都市
特にロサンジェルスは、切り刻んでも死なない巨大なミミズのようだ。ジャン=ポール・サルトル 「アメリカの都市」
『武装市街』はプロットの鍵になるアクションをローケーション撮影して、『裸の町』で追及されたリアリズムをより一層推し進めているように見える。ウィリアム・ホールデンは高架鉄道に乗り込んだ誘拐犯を尾行し、ユニオン・ステーションの雑踏のなかで犯人を見分けようと苦心し、主犯のビーコムを地下鉄のトンネルに追い詰める。それらの場所すべてはスタジオの作り物ではなく、実地の「リアルな場所」である。ところが、ロサンジェルス・タイムズの評が鋭く指摘するように、それらの都市の風景はロサンジェルスとシカゴの並置であり、ロサンジェルスの駅のすぐ近くにシカゴの家畜集積場が存在する場所だ。都市の風景が並置可能というのはどういうことだろう。
第二次世界大戦中にアメリカを訪れたジャン=ポール・サルトルは、アメリカの都市は「仮設」であり、「未来」なのだと指摘する。ヨーロッパ人にとって、家は自分が死んだ後も存続するものであって、簡単に取り壊したり建てたりするものではない、だが、アメリカ人にとって、些細な理由で建物を取り壊して新しいものを建てていくのはノーマルなことだという。つまり、アメリカの都市の風景は一時的であり、次の時代にはその都市は別の様相を見せるのだ。
戦前であれば、サルトルの歴史と都市の風景に対する感受性や視座は、ヨーロッパ人、特にフランス人として広く共有されていたものだったのかもしれない(「アメリカの都市」は1945年4月に「フィガロ」に掲載されている)。だが、大戦によって破壊されたヨーロッパ、アジアの各地が、その後どのように「再生」していったかを考えるとき、このフランスの知識人の風景に対する感受性のズレはさまざまなことを示している。
特に、アメリカの都市の「変化」を指摘している部分は興味深い。
それらの家はかつては上流階級のものだった。いまでは貧しい人々が住んでいる。シカゴの陰気な黒人街地域のなかにギリシャ=ローマ風の教会が建っている。外から見るとまだきれいなものだが、なかには、蚤とネズミだらけの黒人の12家族が6部屋くらいに押し込まれて住んでいる。ジャン=ポール・サルトル 「アメリカの都市」
ここでのサルトルにとって、建物が「かつては上流階級のものだった」ことは「過去」を意味しない。過去とは「自分が死んだ後も(自分が過ごしたと同じように)時が流れる」ことが前提になっている。ヨーロッパでは、上流階級の場所は上流階級の場所であり続け、「労働者の居留地は・・・真の都市にはならない」という。
この視界の差異は、前述の『老兵は死なず』のクライブが「これは紳士同士の戦争ではないんだ!」と鋭く指摘したズレそのものである。かつての歴史が、これから先も維持されるという思考と、すべては一時的で長い時間を通底する「理念」のようなものはもはや存在しないという思考。大邸宅にはそれにふさわしい人が住み続けるという感覚と、貧しい有色人種がスラムとなっていてもおかしくないという感覚。かつての大英帝国が本当に紳士の戦争をしていたか、パリの町が本当に常に変わらない風景だったのかは、関係ない。そういった歴史認識が教養人のなかにあった時代だったのだ。
だが、私が指摘したいのは、その「大邸宅がスラム化する」風景こそが、アメリカの都市の歴史の風景だ、という点だ。どこを切っても同じようなロサンジェルスの風景なのかもしれないが、ロサンジェルス市民なら「この町のシーンの中に、シカゴの高架鉄道や家畜集積場が突然現れる」とびっくりしてしまうのだ。「並置可能」のように見えて、実は資本主義独特の「歴史」が植え付けられている。ロサンジェルスかシカゴかを識別するのは、高架鉄道の車両の形式であって、地形や有名な建造物ではない。シカゴの家畜集積場は、アメリカの畜産業のかたちそのものであり、アップトン・シンクレアの「ジャングル」の舞台であり、労働者の悲惨な生活環境と精肉食品の衛生問題が埋め込まれた場所なのだ。それがロサンジェルスに出てくるのはいささか面食らったであろう。今の私たちにとっては、そういった歴史の刻まれ方はごく当たり前のことのように思われるのだが、当時はまだサルトルのような歴史の情景への認識が存在していたのだ。
ひょっとすると、ヨーロッパ出身の監督のルドルフ・マテが、アメリカの都市に対して、サルトルと似たような感覚を持っていたのだろうか。すなわち「並置可能」だと思っていたのだろうか。彼の『都市の牙』を見る限り、サンフランシスコとロサンジェルスの風景の差異を的確に描き分けている。あくまで推測だが、マテ自身は、アメリカの都市に刻まれる「過去」のあり方に十分に敏感だったのではないだろうか。予算やスケジュールの都合で、この形になったと考えるほうが自然だろう。原作はニューヨークが舞台だが、それをなぜシカゴに移したのか、なぜロサンジェルスではなかったのか、その意図のほうが疑問でさえある。
Links
TCMのサイトに掲載されているGlenn Ericksonの評では、フィルムノワールとしての位置づけを丁寧に分析している。
https://www.tcm.com/tcmdb/title/94488/union-station#articles-reviews?articleId=335828
White City Cinemaでは、シカゴのロケーション撮影について、そしてダーティハリーとの類似について指摘している。
The Secret History of Chicago Movies: Union Station
Data
パラマウント・ピクチャーズ配給 1950/10/4公開
B&W 1.37:1
81分
製作 | ジュールズ・シャーマー Jules Schermer | 出演 | ウィリアム・ホールデン William Holden |
監督 | ルドルフ・マテ Rudolph Mate | ナンシー・オルソン Nancy Olson |
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脚本 | シドニー・ベーム Sydney Boehm | バリー・フィッツジェラルド Barry Fitzgelard |
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原作 | トーマス・ウォルシュ Thomas Walsh | ライル・ベトガー Lyle Bettger |
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撮影 | ダニエル・L・ファップ Daniel L. Fapp | ジャン・スターリング Jan Sterling |
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編集 | エルスワース・ホーグランド Ellsworth Hoagland | アリーン・ロバーツ Allene Roberts |
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音楽 | ハインツ・ロームヘルド Heinz Roemhold |