The Naked City
ユニバーサル・インターナショナル配給
1948年
スミス:
マクギネスさん、もう一度その人達の名前とスペルをお願いします。
マクギネス:
ハイ・クラフト、K-r-a-f-t、ドナルド・オグデン・スチュワート・・・
スミス:
S-t-e-w-a-r-tでいいですか?
マクギネス:
はい。リング・ラードナー・ジュニア、リチャード・コリンズ・・・
スミス:
それからジュールズ・ダッシン?
マクギネス:
はい。D-a-s-s-i-nがスペルだったと思います。
H・A・スミス(HUAC委員)とジェームズ・K・マクギネス(MGM脚本部)の質疑応答より
非米活動委員会 映画産業における共産党員潜入についての公聴会
1947年10月22日 水曜日
Synopsis
夏のニューヨーク。深夜。ひとりの女がアパートで男2人組に襲われる。翌朝、女は浴室で死体で発見される。ニューヨーク市警の殺人課の古参刑事マルドゥーンと新人ハローランが事件の捜査にあたる。捜査線上に浮かび上がったひとりの男。鉄壁のアリバイがあるが、マルドゥーン刑事は何かを隠していると睨んでいた。
Quotes
There are eight million stories in the Naked City. This has been one of them.
この裸の町には800万の物語がある。これはそのひとつだ。
Production
前年の『真昼の暴動(Brute Force, 1947)』に引き続き、プロデューサーのマーク・ヘリンジャー、監督のジュールズ・ダッシン、撮影監督のウィリアム・H・ダニエルズが再度結集して取り組んだ、セミ・ドキュメンタリーの意欲作である。
ニューヨーク、ヨークヴィルの裕福な弁護士の家に育ったマーク・ヘリンジャー(1903-1947)は、家を飛び出してウェイターなど様々な仕事を経験したのち、1922年にブロードウェイ担当のタブロイド記者としてスタートした。ヘリンジャーがブロードウェイ批評を始めた先駆者だと言われている。しかし、実際には大部分がナイトクラブや楽屋で集めてきたゴシップ記事だったようだ。ニューヨーク・デイリー・ニュースでコラムの担当を任されたとき、編集長が期待したゴシップや特ダネではなく、敬愛するO・ヘンリーのスタイルの短編ストーリーを書き始めた。彼が都会の夜の隙間で見聞した名もない人々の「お話」である。これが人気を集め、一躍ゴッサム・シティで一、二を争う人気コラムニストとなり、15年にわたるキャリアのなかで、数千の短編コラムを書いたと言われる。多くのブロードウェイ著名人、スター、プロデューサー、そしてもちろん裏の社会の人々とも知己を得た。一時期は、ライバル記者ポール・ギャリコ(後の『スノーグース』『ポセイドン・アドベンチャー』の著者)との罵りあいを紙上で「演じ」て、部数を稼いだこともある。1930年代から、ジーグフェルド・フォリーの脚本家、次いで映画脚本家としても活躍しはじめ、1937年にジャック・ワーナーに雇われる。『夜までドライブ(They Drive by Night, 1940)』『ハイ・シエラ(High Sierra, 1941)』などをプロデュースしたのち、ロバート・シオドマク監督の『殺人者(The Killers, 1946)』で大成功を収めた。『裸の町』は、ヘリンジャーが地元ニューヨークに戻って、思い入れのある世界をフィルムに映し出そうとした作品である。ユニバーサルは120万ドルの製作費をヘリンジャーに託した。
ジュールズ・ダッシン(1911-2008)は、ニューヨークのハーレム育ちのユダヤ系アメリカ人。1930年代にはユダヤ演劇の俳優を目指していたが、脚本・演出に転向した。戦時中にプロパガンダ映画などを監督したのち、前作の『真昼の暴動』で注目を浴びる。しかし、1930年代に共産党に入党していたことから、下院非米活動調査委員会の対象になっていると噂されていた。この『裸の町』の翌年、ダリル・F・ザヌックから「ブラックリストに載ることになるが、もう一本だけ監督する時間があるだろう」と言い渡される。渡英して『街の野獣(The Night and the City, 1950)』を監督する。彼の息子、ジョー・ダッサンは「オー・シャンゼリゼ」で有名な歌手。
原作・脚本のマルヴィン・ウォルド(1917-2008)も生粋のニューヨーク人である。彼は、第二次大戦中に陸軍の映画班に配属され、そこでロバート・フラハティやジョリス・イベンスのドキュメンタリーを研究した。ウォルドはこの映画のストーリーを考案するあいだ、ニューヨーク市警に出入りして研究を重ねた。ヘリンジャーに、細部に、そして特に端役によりこだわるように提言した。「自動車の修理工は、自動車の修理工のような面構えをしていて、自動車の修理工のような話し方をするべきだ。」
この作品における、脚本のアルバート・マルツ(1908-1985)の役割は限定的だったようだが、ヘリンガーに対して「ニューヨークの日常の、豊かで無限の細部を捉えるカメラ・アイ」であるべきだと(さらりとジガ・ヴェルトフのコンセプトを織り交ぜながら)主張したと言われる。また、サウンド・トラックにできるだけ「日常の音」を使うように示唆したのも彼である。マルツはこの後、HUACの公聴会で証言を拒否、ハリウッド・テンの一人となる。
撮影のウィリアム・H・ダニエルズ(1901-1970)は、サイレント期はエーリッヒ・フォン・ストロハイムのカメラマンとして、トーキーになってからはグレタ・ガルボの専属として有名だが、ここではそのような「黄金期」のハリウッド・スタジオ撮影のビジュアルとは全く正反対とも言ってもいい、渇ききった街の映像をグレーの色調でとらえている。
この作品の製作時のタイトルは「殺人(Homicide)」。タブロイド・カメラマンとしてニューヨークの街を撮影し続けていたウィージー(1899-1968)が1945年に出版した写真集のタイトルが「The Naked City」だが、マーク・ヘリンジャーはこのタイトルを買い取り、ウィージーを映画『裸の町』のスチール写真担当としても契約した。同名のウィージー製作の短編ドキュメンタリーが後に『ウィージーのニューヨーク(Weegee’s New York)』としてリリースされている。
『裸の街』はそのほとんど(ユニバーサルによれば全編)が、ニューヨーク市内でのロケーション撮影である。当時、ニューヨーク、その近辺で撮影された作品は実はいくつかある(『ジェニーの肖像(Portrait of Jenny, 1948)』、『失われた週末(The Lost Weekend, 1945)』等)のだが、ここまで徹底して街を撮った作品は『裸の町』が初めてであろう。ユニバーサルの広報によれば、25万フィートのネガが使用された。ダッシンたち撮影班は、ロケーション撮影の現場で、撮影に集まってくる群衆の問題に頭を悩まされることになる。大道芸人を雇って、野次馬たちの注意をそらしたり、ハーフミラーを使ったトラックで隠し撮りをするなどしたと語っている。この撮影の様子を撮影したウィージーのスチール写真が残っている。
出演者の大部分は、いわゆる「ハリウッド俳優」ではなく、ニューヨーク在住の俳優だったことも特色である。ジェームズ・グレゴリーとウィリアム・バークはこれが映画デビューとなる。ブロードウェイの俳優だけでなく、まだ開始したばかりのテレビに出演している俳優まで「横取り」する格好になり(当時のTV番組はラジオ同様、ニューヨークで製作されていた)、NBCのTVプロデューサー、オーウェン・デイビス・ジュニアが「人手が確保できずに苦労している」とバラエティ誌に述べている。
数少ないハリウッド俳優の一人が、マルドゥーン刑事役をつとめたバリー・フィッツジェラルド(1888-1961)。マーク・ヘリンジャーがニューヨークの警察をまわって多くの「古参刑事」に面会を求めてイメージを固めた。当初は「ジョージ・ラフトあたり」を考えていたのが、面会を重ねていくうち、途中からバリー・フィッツジェラルド以外、頭に浮かばなくなったという。
この映画はタイトル・クレジットがない。冒頭、ニューヨークの上空からの映像に、マーク・ヘリンジャー自身のナレーションで、タイトル、監督、撮影監督、出演者が紹介される。そして全編を通して、彼のボイス・オーバーがこの映画の世界を語るのである。
1947年11月にユニバーサルの社内で試写があったが、ダッシンによれば「重役どもは気に入らなかった」そうである。ニューヨークの風景が映っている部分だけ残して短編旅行映画にでもするしかない、などと侮辱されたと語っている。さらに悪いことに、マーク・ヘリンジャーが翌月の12月に突然亡くなった。スタジオによる大幅な修正が入った後、翌年1948年の3月、ニューヨークでプレミア上映される。ダッシンは、ここで初めて改変を知り、上映後、挨拶をするニューヨーク市長の壇上からの呼びかけも無視して、劇場を去る。
Reception
公開当時の評価はおおむね演出、撮影を高く評価している。
アルバート・マルツとマルヴィン・ウォルドの脚本は、実に新鮮な方法で、ドラマの要素を上手く活かし、容赦ない犯人追跡を爆発的なクライマックスへと導く。
Motion Picture Daily
よく見る街角から、みすぼらしい鉄筋とスラムまで、この街の大きなキャンバスをウィリアム・ダニエルズの突き刺すような鋭いカメラがとらえている。ニューヨークをニューヨークたらしめている、ありとあらゆる光景が見事に息づいている。
Motion Picture Herald
ジュールズ・ダッシンの演出は切れ味が良く、ウィリアム・ダニエルズのカメラワークとともに物語の内容を鋭く研ぎ澄ましている。
Variety
地元ニューヨークのボズレー・クラウザーは辛口である。
物語は表面的で、いわゆる「日常の一コマ」の域を出ていない。
New York Times
興行成績は240万ドル。1948年の興行成績ランキングで43位だった。
この映画の新鮮なアプローチは多くの映画にも受け継がれたが、直接その遺伝子を引き継ぐのはTVシリーズだった。1958年から5年間にわたりTVシリーズ”Naked City”がABCで放映される。映画のセミ・ドキュメンタリー・スタイルとボイスオーバー・ナレーションを踏襲し、最後も「この裸の町には800万の物語がある。これはそのひとつだ」で締めくくる。映画『裸の町』自体だけでなく、このTVシリーズが、後の「ニューヨーク・スタイル」の映画に与えた影響は大きい。特に、ウォルター・マッソー、ロバート・デュバル、ジェームズ・カーン、クリストファー・ウォーケン、ダスティン・ホフマンなどが無名時代に主役や端役でTVシリーズに出演していることを考えあわせると興味深い。
当初、『裸の町』は警察もの(フィルム・ポリシエ)とみなされ、フィルム・ノワールとは相対するもの、と考えられていた。
『裸の町』とフィルム・ノワールを関連付けるものはあまりない。むしろ、これは警察ものとして機能している。
マイケル・ウォーカー
(『裸の町』のような)ドキュメンタリーものは、殺人を外部から、警察の公的な立場から見ている。フィルム・ノワールは、内部から、犯罪者の眼から見ている。
レイモン・ボルド&エティエンヌ・ショーモン
一方で、ハリウッド映画の系譜として、都市が果たす役割とその描き方の変遷を見通した際に、『裸の町』をはじめとするセミ・ドキュメンタリー作品は、都市の不安とそこに生きる人間の不条理を描きはじめた端緒だという批評も現れてきている。
『裸の町』に見られるような、都市空間の高空からの撮影は、戦時中の爆撃跡地の航空写真との繋がりも手伝って、人間の無力さと無意味さを示唆するものとなっている。
ウィリアム・ルアー
フィルム・ノワールに見られるペシミズムは、もはやスタジオのセットでは支えきれないほど大きくなった。『裸の町』の場合、ペシミズムは作品の都市景観に無理やり押し込まれてなどいない。それはもう既にビル、ストリート、舗道に、コンクリートと同じようにハッキリと既に存在しているのだ。
カール・リチャードソン
ウィリアム・H・ダニエルズの撮影は、その後の撮影監督達に多大な影響を及ぼした。
ちょうどその頃、フェイ・ライトという照明が出てきて、ダニエルズはそれを使ったんだ。アークも何も使わずに、それで全部撮ったんだよ。それが今で言う「ニューヨーク・スタイル」の始まりさ。
ウィリアム・A・フレーカー
『裸の町』はアカデミー撮影賞、編集賞を受賞している。
Analysis
リアリズムの系譜
『裸の町』を映画史の流れのなかで論じる際に、イタリアン・ネオリアリスモの影響を受けている、という指摘は多い。
ネオリアリスモが、トリュフォーら、フランス・ヌーベル・ヴァーグの監督に与えた影響はよく知られているが、アメリカ映画へのインパクトは概ね無視されている。『夜の人々(They Live By Night, 1948)』のニコラス・レイ、『影なき殺人(Boomerang!, 1947)』のエリア・カザン、『裸の町』のジュールズ・ダッシン、『暴力の街(The Lawless, 1950)』のジョセフ・ロージー、『ボディ・アンド・ソウル(Body and Soul, 1947)』のロバート・ロッセン、『十字砲火(Crossfire, 1947)』のエドワード・ドミトリクといった広範囲にわたる映画監督の戦後作品に、ネオリアリスモのスタイル要素だけでなく、社会、政治問題への関心と言った要素も見て取ることができるであろう。
バート・カルデュロ
ジュールズ・ダッシン自身も「(ロッセリーニの)『無防備都市(Roma città aperta, 1945)』を見たとき、これだ、こういう風に撮るんだ、と思ったさ」と述べている。
だが忘れてはいけないのは、『Gメン対間諜(House on 92nd Street, 1945)』から始まる、20世紀フォックスのセミ・ドキュメンタリー作品群である。ダッシンもイタリアン・ネオリアリスモの影響とともに、これらのルイ・ド・ロシュモン製作作品がインスピレーションであったことを認めている。ロシュモンは、ニュース映画『マーチ・オブ・タイム』の製作に戦時中関わり、ドキュメンタリー映像、あるいは、役者ではない一般人をロケーション撮影した映像のもつ力に触れ、この手法を劇場用映画に使えないかと考えていた。そこからいわゆる「セミ・ドキュメンタリー」が、イタリアの戦後作品とは独立に、だがほぼ同時期に生まれた。
だが、演出や撮影のアプローチ(全編ロケーション撮影、無名俳優の起用)だけに眼を向けると、「ネオリアリスモの精神を持たない(ポール・ロタ)」薄っぺらい模倣で、「空っぽ(ポーリーン・ケール)」という批判も生まれてくるかもしれない。社会問題を正面から取り扱わず、「暴力的で、抑圧され、ひねくれて、異常で、病的で、サディスティックで反社会的な」人物の犯罪行為ばかり取り上げている作品であって、人間性への理解が足りない、という見解である。しかし、そのような表面的な比較だけから、「リアリズム」の系譜を読み解き、娯楽作品の限界を暴き立てる試みは、この作品がもつポテンシャルを見過ごすことになるであろう。
『裸の町』が密かにもつポテンシャルを考えるうえで、さらに重要なファクターは、マーク・ヘリンジャーとウィージーである。
ウィージーと写真
ウィージーは、1935年から1947年までニューヨークの「闇」を撮り続けた、カメラマンである。彼は警察無線で事件を聞きつけるといち早く現場に駆けつけ、「現場」を撮影する。その多くは、当時ニューヨークを牛耳っていたマフィア(Murder, Inc.)の殺人事件現場である。「死体は2時間はそこに転がったままだし、写真を撮っても文句を言わない」というウィージーは、まだ乾いていない血が流れる夜の殺人現場を、愛用の「スピード・グラフィック」でフラッシュを焚いて撮影する。自分の車の後部に自作した暗室ですぐに現像し、タブロイド新聞の編集者に届ける。他にもタブロイド・カメラマンはいたが、彼が他のカメラマンと一線を画したのは、その「構図」である。
小さい菓子屋の入り口で殺された男がいたんだ。気持ちのいい、爽やかに暑い夏の夜だった。現場は刑事でいっぱいだったが、そのビルの5階全部、住人は非常階段のところに出てきてるんだ。みんな見てるんだよ。楽しそうにね。子供の中にはマンガなんか読んでるのもいる。他のカメラマンも来ていて、いわゆる10フィート・ショットってやつを撮ってた。つまり、入り口に転んでる被害者だけ撮影したんだね。それだけ。でも、俺にとっちゃ、これはドラマだ。これは背景みたいなもんさ。俺は、ずっと後ろに100フィートほど下がった。フラッシュをつかって、全体を撮影したんだ。非常階段にいる人達、死体、全部だよ。もちろん、写真のタイトルは「殺人現場のバルコニー席」だよ。
このスタイルによって、ウィージーの写真は、他のタブロイドカメラマンのものとは大きくかけ離れた、非常に印象深いものになる。事件現場をじっと見つめる人々の表情、血を流して横たわる死体を目の前にして大儀そうにしている警察官たち、燃えさかるアパートを見て悲鳴をあげる親子、飲んだくれて倒れている男を笑う人達、溺れたボーイフレンドの横で、カメラを向けられたので反射的に素直にスマイルをしてしまった若い女。時折見られる、絶妙なアイロニー、たとえば火の手が上がるビルに放水する消防車。そのビルの看板には「沸騰したお湯を注ぐだけ」と書かれている。インスタント食品の広告だ。ニューヨークという都市/Cityが、殺人や事故といった「非日常」を「日常」に吸い込んでしまって、シニカルに増殖するさまを活き活きととらえるのがウィージーのトレードマークである。
映画『裸の町』のレンズが、ニューヨークのビル、アパート、通り、裏通り、空き地、そしてそこを埋める人々をとらえる構図は、時としてこのウィージーのスタイルをなぞっている。殺人事件の舞台となった高級アパートの入口に集まる人々、イースト・リバーに飛び込む子どもたち、朝のカフェでコーヒーを飲む通勤の人々、警察官たちが通りを走るのを立ち止まって見る人たち、消火栓の水で遊ぶ子どもたち、それらは、いつどこでウィージーの写真に紛れ込んでいてもおかしくない人々である。だが、ユニバーサルによってカットされてしまった部分には更にウィージーを彷彿とさせるショットがあったようだ。「Hotel Progress (「前進」「発展」といったところか)」の大きな看板の下で道に寝ている浮浪者、高級宝石店の前で帽子と靴を交換する2人のホームレス、といったショットがあったとプライムは記している。明らかに、ウィージーの「スタンリー・サンドラーの死とアイリーン・ダンの『生活の悦び』」や「評論家」といった写真がもつ皮肉をふと思い出すシーンだったに違いない。
1930年代のウィージーはタブロイドにセンセーショナルでショッキング、大衆が惹きつけられる「報道」写真を寄せていたカメラマンである。その彼が、40年代に入ったころから、写真芸術として認められるようになり、彼自身もそのプロモーションを怠らなかった。1941年にはニューヨーク・フォトリーグ展覧会で個展、1943年にはニューヨーク近代美術館で個展を開催している。そして1945年に、『裸の町』の原題にもなった「Naked City」を出版するのである。確かにウィージーは当時のカメラマンとしては、その独特の構図と持ち前のアイロニーのセンスで突出して目立っていたが、彼だけが(そのいやらしいまでの自己宣伝は別にしても)特異な存在であったわけではない。むしろ、30年代からアメリカで注目を集め始めた報道写真、ドキュメンタリー写真、『LOOK』や『LIFE』といった写真雑誌のもたらした潮流の一環と考えたほうがよいだろう。ウィージーがヘリンジャーによって映画の「スタイル」として取り上げられた背景には、当時の報道写真と写真芸術をめぐる、奇妙なあやふやさがある。
ヘリンジャー最後のニューヨーク
マーク・ヘリンジャーって男は、『ボロボロの服を着た通りすがりの他人だって、その昔はブロードウェイで週2000ドルをとっていたスターだったかもしれない』と感じるような、そういう感性を持ったやつだった。ピート・マーチン
生粋のニューヨーク人で、ウェイターやタクシー運転手に気前よくチップをはずみ、仲間は絶対裏切らない、というヘリンジャーにとって、果たしてハリウッドが水が合う土地だったかは、分からない。しかし、彼は1940年代に立て続けにヒット作を送り出し、『裸の町』のときにはハリウッドきってのプロデューサーとして順風満帆であった。1920年代の禁酒法の時代、マフィアの抗争の時代を実際にニューヨークで生き抜いた人物であり、『彼奴は顔役だ!(The Roaring Twenties, 1939)』の原作をジャック・ワーナーに提供した。そんなヘリンジャーが、ニューヨークを舞台にした全編ロケーション撮影の映画を企画して、「Murder, Inc.の写真担当」と言われたウィージーに興味を持ったのは至極当然のことだったのかもしれない。
ヘリンジャーがコラムに掲載した短編は、2冊のアンソロジー、「Moon Over Broadway」「The Ten Million」として出版されている。どれもわずか数ページの話で「コンバセーション・ピース」とでも呼ぶべき、最後にひねりのオチのある作品ばかりだ。笑い話のようでも、決して腹の底から笑える話ではない、どこか陰惨で虚飾が剥がれる音が聞こえるようなストーリーである。『裸の町』のヘリンジャーの印象的な最後の言葉、「800万の物語」(当時のニューヨークの人口が800万と言われていた)は、こういう話を意味しているのだ。隣人の人生、通りの向こうに住んでいる同僚の家族、見上げるような高層高級アパートから出てくる毛皮をまとった女から、イーストリバーに浮かぶ死体まで、それらすべての人のストーリー。ウィージーが撮影した顔の人々の向こうにあるはずのストーリーのことである。
涙腺が弱いくせに黒シャツで虚勢をはっているロマンチストのヘリンジャーと、3日前のステーキのようにカチカチの面の皮のタブロイド男ウィージーという、一見相容れない性格の持ち主同士だが、この二人は、資本主義が加速していく都市の隅々で非日常と日常がせめぎ合う様子に「物語」を見出しており、その語り口を模索していた。大上段からの語り、一流新聞の編集記事のような語り口ではなく、「800万」を一つに還元するのではなく、一つを語る、語り口を探していた。ニューヨーク出身の映像作家達が、この映画を「ニューヨーク・スタイル」と呼ぶのは、その語り口への敬意と誇りなのであろう。
ロケーション撮影の難儀
ヘリンジャーはこの作品に特に思い入れがあったようで、撮影現場を頻繁に訪れていたようである。この時代の、そして特にこの作品の「全編ロケーション撮影」というのは、今の私達には想像できない様々な障害を抱えていたようである。ダッシンは、野次馬のコントロールに苦労したことを述べているが、ここまで大掛かりに、ニューヨークの下町でロケーション撮影をした作品は、ほぼ初めてだったことを考えると当然なことかもしれない。「警察権力の側に立った」作品などと揶揄されることも多いが、地元警察の力を借りなければこれだけの規模のロケーション撮影はほとんど不可能だったのではないのだろうか。
『裸の町』はそれでも夜のシーンが少ないが、とはいえフィルムの感度はずっと低く、常に照明を十分に利用しないと、露出不足にもなりかねない。スタジオでの撮影のようにカーボンアーク灯などをふんだんに使うといったことは現場ではできない。ウィージーが撮影したロケーション撮影の現場スチール写真から判断すると、フレーカーが言及している「フェイ・ライト」と、現場の照明を組み合わせることが多かったようである。ドリンク・スタンドのシーンはフェイ・ライトと店の蛍光灯を組み合わあせて撮影していることがわかる。このシーンを見ると、店内だけでなく、背景の店外の風景も実にシャープに活き活きと写し撮られていて、ダニエルズの確かな腕と眼が感じられる。他にも、意図的に深度の深い構図でフォーカスをなるべく合わせる映像が全体を占めている。もちろん、ロケーションとして選ばれた場所も、レスリング・ジム、ビルの工事現場、ビルとビルの間の空き地、墓石のストックヤード、高級宝石店に市場と、実にバラエティに富んでいる。
室内の撮影でさえも、ロケーションで、実際の警察署、オフィス、アパートの部屋で撮影した。ダッシンは「そのことについては失敗したと思っている」と後日述べている。「やはり室内でカメラや照明の位置が固定されてしまい、冗長なシーンになりがちだった。」
ニューヨークのストリートの感覚をさらに体感させるもの、それが「音」である。アルバート・マルツが主張した都市の自然な音、ー車や地下鉄の音だけではなく、近所の子供達の声、アパートでバイオリンを練習する音、といった都会に住む者が日頃聞こえていても、聞いていない音、それがここでは絶妙な効果を果たしている。しかし、それらの音の使用が限定的に終わっているのが残念である。ボイスオーバーのナレーションのバックで鳴り続けるミクロース・ロージャの音楽がやや単調なのは否めない。だが、ドン・テイラーがテッド・ド・コルシアのアパートを訪れるときに聞こえる、バイオリンの練習の音、同じフレーズの繰り返しがもたらす、別の世界に滑り込んでいくような感覚は、実に新鮮で、そのシーンだけでも都市の音を使うというアイディアが成功したと言えるかもしれない。
ジュールズ・ダッシンは、1947年11月の時点でHUACで名前が挙がっており、ごく早い時期から共産党のシンパとして目をつけられていた。その年の12月にウォルドーフ・アストリア宣言がハリウッドの映画スタジオのトップによって発表され、そのなかに「こんな映画は旅行短編にしてしまえ」と言ったウィリアム・ゲッツの名前もある。マルツとダッシンが関わった『裸の町』から「政治臭のするシーン」が切られてしまうのは、おそらくヘリンジャーが生きていても防げなかっただろう。もう、1人や2人の力ではどうにもならないほど、パラノイアがハリウッドを呑み込んでいた。
Links
聖ボナヴェンテュア大学のウェブサイトに、マーク・ヘリンジャーに関しての詳しい情報が掲載されている。
filmsnoir.netのトニー・ダンボラは、ストーリーが深みに欠け、ボイスオーバー・ナレーションが鬱陶しいとしながらも、「ニューヨークの町とその人々の描写には釘付けになる」とコメントしている。
TCMのサイトでは、ポール・タタラが「なんとも凄い映像の作品」と評している。
ニック・カーの”Scouting New York”では、『裸の町』のロケーションの現在を比較している。実に見事な探索の仕事で、これは必見(Part 1, Part 2, Part 3)。『土曜日正午に襲え』のロサンジェルス、グレンデールの変化と比べてみると非常に面白い。グレンデールの風景は劇的に変わってしまったが、ニューヨークの風景は、その面影をまだ一部残しているのが分かる。
Data
ユニバーサル・インターナショナル配給 1948/3/4公開
B&W 1.37:1
96分
製作 | マーク・ヘリンジャー Mark Hellinger | 出演 | バリー・フィッツジェラルド Barry Fitzgerald |
製作 | ジュールズ・バック Jules Buck | ハワード・ダフ Howard Duff |
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監督 | ジュールズ・ダッシン Jules Dassin | ドロシー・ハート Dorothy Hart |
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原作・脚本 | マルヴィン・ウォルド Malvin Wald | ドン・テイラー Don Taylor |
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脚本 | アルバート・マルツ Albert Maltz | フランク・コンロイ Frank Conroy |
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撮影 | ウィリアム・H・ダニエルズ William H. Daniels | テッド・ド・コルシア Ted de Corsia |
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編集 | ポール・ウェザーワックス Paul Weatherwax | ハウス・ジェームソン House Jameson |
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音楽 | ミクロース・ロージャ Miklós Rózsa | トム・ペディ Tom Pedi |
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音楽 | フランク・スキナー Frank Skinner | ナレーション | マーク・ヘリンジャー Mark Hellinger |
美術 | ジョン・デクール John DeCuir |
References
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Top Image: Ad from Motion Pivtur Daily, Jan. 28, 1948 (Public Domain)