Brute Force

ユニバーサル・インターナショナル配給
1947
どうして、こんなに良い奴で優しくて、おまけにハンサムな連中が、刑務所にいるんだ?
― ジュールズ・ダッシン

Synopsis

雨のウェストゲート刑務所。独房に監禁されていたジョー・コリンズ(バート・ランカスター)が自分の房に戻ってくる。彼の房には、ソルジャー(ハワード・ダフ)、スペンサー(ジョー・ホイト)らが待っていた。彼らの最大の敵は、刑務所の保安担当のトップ、ムンジーだ。冷酷なサディストであるムンジーと囚人達のあいだに不穏な緊張が高まるなか、ジョーは面会の弁護士から妻のルースが癌の手術を拒んでいると聞かされる。ジョーとその仲間たちは脱獄の計画を練り始める。

Quotes

Force does make leaders. But you forget one thing: it also destroys them.

力がリーダーを作るのはそのとおりだね。だが、君が忘れていることが一つある。
力はリーダーを滅ぼしもするんだ。

ウォルターズ医師

Production

ジュールズ・ダッシンとアクターズ・ラボラトリー・シアター

1946年のクリスマスの週に、『真昼の暴動』の製作計画が発表された。マーク・ヘリンジャーがユニバーサル・インターナショナル配給下での3作目となる製作を担当し、バート・ランカスターが主演、ジュールズ・ダッシンが監督である。

ジュールズ・ダッシンは短編映画『The Tell-Tale Heart (1941)』で監督デビューして以来、MGMで主にB-ユニットの作品の監督をしていた。MGM時代の監督作品をダッシン自らは毛嫌いし、1995年のニューヨーク近代美術館でのレトロスペクティブでも、この頃の作品は上映させなかったと言っている。コンラート・ファイト出演の『Nazi Agent (1942)』、チャールズ・ロートン主演の『The Canterville Ghost(1944)』などの佳作もあるが、確かに後年のダッシンのトレードマークとなる壮絶な暴力と敗北主義の濃い色彩の作品群とは大きくかけ離れている。MGMの製作システムのなかでは、ダッシンは不幸だった。

MGMで監督を始めた1941年にダッシンは、J・エドワード・ブロンバーグ、ローマン・ボーネン、ロイド・ブリッジス、ジェフ・コーリーらとアクターズ・ラボラトリー・シアターを結成する。アクターズ・ラボラトリー・シアターは、ハリウッドに演技技術の転換をもたらした重要な劇団だった。主要メンバーのなかにはニューヨークのグループ・シアターに属していた者もおり、ここを仲介としてその後アクターズ・スタジオが登場し、メソッド演技が浸透していくことになる。ダッシンやボーネンが演技クラスを開講、参加したメンバーのなかには、チャールズ・ロートン、アンソニー・クイン、マリリン・モンローらの名前が見える。さらに、ヒューム・クローニンとジェシカ・タンディの夫妻はテネシー・ウィリアムスの『Portrait of Madonna』を舞台化し成功する。一方で、ハリウッドの一部の保守派は、アクターズ・ラボラトリー・シアターの活動は共産主義者の巣窟になっていると考えていた。メンバーのなかには、その後HUACの公聴会を経てブラックリストされてしまう者もいた。

マーク・ヘリンジャーは、契約しているバート・ランカスターを出演させるという点を除いて、ダッシンにすべて任せて自由にやらせていたようだ。結果、アクターズ・ラボラトリー・シアターのから多くのメンバーが出演している。サディストの保安担当ムンジーにはヒューム・クローニン、刑務所所長はボーネン、刑務所仲間のひとりはジェフ・コーリーが演じている。他にも、オーソン・ウェルズのマーキュリー・シアターに在籍していたジョン・ホイトなどが参加している。

脚本を担当したリチャード・ブルックスは、第二次大戦中に海兵隊の映画撮影班に所属していたが、その頃に執筆した「The Brick Foxhole」が好評を得る。これは後に『十字砲火(Crossfire, 1947)』として映画化されている。マーク・ヘリンジャーは『殺人者(The Killers, 1946)』の脚本をリチャード・ブルックスに一時期担当させた。ヘリンジャーのもとでの二作目として、ロバート・パターソンの原作をもとにしつつ、ブルックスはサンフランシスコのサン・クエンティン刑務所に取材して題材を集めた。

過剰な暴力表現とPCAの失策

PCAは脚本の段階から非常に強い否定的な姿勢を示し、暴力的な表現を極力抑制するように注意を喚起した。暴力を直接見せるのではなく、示唆を通して表現するように繰り返し通達している。例えば、情報屋のウィルソンが殺害されるシーンでは、キッド・コイがバーナーの炎をウィルソンの手に向ける動作やウィルソンが巨大なプレス加工機によって押しつぶされる様子は、詳細を見せることなく示唆するにとどめるように指示している。しかし、実際の完成したフィルムでは、キッド・コイはウィルソンの手にバーナーの炎を当てる様子が明確に映っているし、プレス加工機の構造と動作が明確に分かるように映し出されているので、その下に倒れたウィルソンがどうなったかは観客には「示唆」や「暗示」ではなくほぼ「明示」されているに等しい。ラストの暴動のシーンでは、その暴力表現はさらに過剰になる。看守たちが機関銃を無差別に掃射し、囚人たちが倒れ込む。トロッコの前にくくりつけられたスタックが、待ち受けた看守たちの機関銃掃射を浴びて生贄にされる。ジョーがムンジーを監視塔から叩き落とし、囚人たちがそれに群がる。確かにジョーが機関銃で看守を撃ち殺す場面は周到に編集されて切り出されているものの、圧倒的な死亡者の数とその凄惨な死の場面によって、PCAが暴力表現をコントロールしようとした意図は完全にかき消されている。このラストは同時代のアクション映画における暴力表現に比べてもインパクトがあるが、PCAはこれらの過激な暴力表現を規制することに失敗したとも言える。

ハリウッドの専属アーティスト、ジョン・デッカー

『真昼の暴動』でジョー・コリンズたちが事あるごとに眺めているカレンダーの絵がある。眼を閉じた女性の肖像画だ。この肖像画を介して、囚人たちは捕まる前の自分たちの人生に登場した忘れられない女性たちへの想いを馳せ、その物語を語る。

ただのピンナップの女じゃないんだよ。俺たち一人一人にとって、特別な女性なんだ。スペンサー(ジョン・ホイト)

このカレンダーの肖像画を描いたのは、ハリウッドの有名人たちのなかでも当時最も耳目を集めていた人物のひとり、ジョン・デッカーである。彼自身は映画の製作に関わったことはないが、ジョン・バリモア、W・C・フィールズ、エロール・フリンらとアルコール漬けの夜を派手に過ごし、羽目をはずした逸話でタブロイドやゴシップ誌を賑わした人物である。同時に当時のハリウッド著名人の肖像画(なかにはジョークのような作品もあるが)を数多く残している。マーク・ヘリンジャーは、『真昼の暴動』の血や油に滲んだ凄惨な場所から男たちが逃避する入り口として、このカレンダーの肖像画をジョン・デッカーに依頼した。デッカーはこの肖像画を、囚人たちのフラッシュバックに登場する三人の女性(エラ・レインズ、アン・ブリス、イヴォンヌ・デ・カーロ)を合成して描いたと言われている。しかし、一方で不気味な逸話も伝えられている。デッカーはロサンジェルス警察の遺体安置所を訪れるのが趣味で、そこで見た検死待ちの遺体を描いたものだ、という説である(彼は喉を搔き切られた女性の遺体の絵をアイダ・ルピノにプレゼントしたと言われている)。確かに、このカレンダーの肖像画は、生気とは無縁の、静謐だが異次元のもののようなテクスチャを備えている。デッカーは『真昼の暴動』公開の一週間前に亡くなってしまい、この肖像画を気に入っていたマーク・ヘリンジャーもこの年の暮に亡くなったため、「呪われた絵」とも言われていた。ちなみに『緋色の街/スカーレット・ストリート(Scarlet Street, 1945)』に登場する絵画もデッカーによるものである。ジョン・デッカーの伝記の著者、ステファン・C・ジョーダンによれば、ハーバードのフォッグ美術館所蔵のレンブラント作の肖像画はデッカーによる贋作の可能性が高いという。

『真昼の暴動』ジョン・デッカーの作品

Reception

今まで監獄の物語は山のようにあった。もうやり尽くされたと言っても良いだろう。だが、この映画のように、見事に的中した内容のものはほとんどなかった。The Film Daily

刑務所を題材にした映画はトーキーの初期から数多く見られたが、『真昼の暴動』はそれらの流れからは一線を画したと公開当時から評価されていた。ジュールズ・ダッシンの演出は「引き締まっており、テンポも脚本とマッチしている(Variety)」と評価が高く、「バート・ランカスター、ヒューム・クローニン、チャールズ・ビックフォード、サム・レヴィーンの演技が際立っている(Motion Picture Herald)」と突出した演技力への賞賛も多くみられた。ヘリンジャーは「全財産を質に入れずに(Variety)」この作品を製作して成功へ導いたとして、アクション映画のプロデューサーとしての地位を確立したようだ。

しかし、ニューヨーク・タイムズのボズリー・クローサーは懐疑的だ。「アメリカの平均的な囚人があんなひどい扱いを受けているかどうか知らない」としながら、この作品の囚人たちは「どこをとっても良い奴ばかり」なのに、刑務所側の人間たちが全く同情に値しないこと ―――看守は無能だし、医者は飲んだくれ、看守長はサディスト ―――は、この作品の方向性を混乱させていると考えている。

示唆されているのは強制収容所だということ ―――囚人たちが哀れな犠牲者で権力者達が棍棒をもった悪者だということ―――を思わない者はいるだろうか? New York Times

Varietyによれば、興行収入は220万ドル、1947年の66位だった。

フィルム・ノワール批評のなかでは、『真昼の暴動』はマーク・ヘリンジャー/ジュールズ・ダッシンのコンテクストで語られてきた。またフィルム・ノワールと「刑務所映画とのハイブリッド(マイケル・ウォーカー)」として位置づけられてきた。興味深いのは、そのフィルム・ノワール特有の仕掛け(フラッシュバック、ファム・ファタール)が、他のノワール作品とニュアンスにおいて差があるという指摘だろう。この作品のフラッシュバックを、ブルース・クローサーのように「欠点」ととらえる批評もある一方で、「刑務所映画の典型的なリベラル的な思想(アンドリュー・ディコス)」を強化するのに役立っていると考える評者もいる。

『真昼の暴動』は、その容赦ないサディズムの描写によって1950年代以降にハリウッド映画がたどった道のりに少なからず影響を与えた。前述のようにPCAがこの作品を完全にパージできなかったことは、観客の要求の変化と、それに伴うプロダクション・コードの強制力の減衰が始まっていたことを物語っている。

『真昼の暴動』過剰な暴力表現

Analysis

マシンガンとフィルム

ギャングや他の犯罪者が、マシンガン、サブ-マシンガン、あるいは他の違法武器に分類される武器を持っている様子を、いかなる場合にも見せてはならない。 プロダクション・コード、修正項

プロダクション・コードの適用が厳重化されたのと同じ頃、犯罪組織、主にマフィアの凶悪犯罪の撲滅を目論んで、マシンガンなどの銃を所持するには登録が必要とする法律が施行される。1934年のことだ。悪名高い「聖バレンタインデーの虐殺」は1929年に起きたが、その後マシンガンを乱射するマフィアのイメージが様々なメディアで定着していった。このイメージはプレコード時代のマフィア映画によって更に強化されていく。『暗黒街の顔役(Scarface, 1932)』では、マシンガンを乱射することにエクスタシーを覚えているトニーのようなキャラクターが登場する。1930年当時の社会改革運動家やカトリックなどの規制推進派が、マシンガンの持つ非情な破壊力がかえってマフィアの反社会的な暴力の美化を誘うことを怖れたのは当然だろう。その結果、ヘイズ・オフィスは、プロダクション・コードでマシンガンを見せることを極力抑制しようとしたのだった。

1934年の銃規制では、ソードオフ・ショットガンなども対象になっているのだが、マフィア映画における銃撃というとマシンガンの掃射が最もアイコニックなイメージとなっている。ピストルやライフルのトリガーを引いて一発撃つというアクションや、ショットガンのブラストは一瞬の事象であるのに対し、マシンガンによる銃撃はフィルム映画との親和性が高い。どちらも1秒間に24コマ/1分間に750発という人間の反射が追いつくことのない非連続性を持ちつつ、カメラ/マシンガンがアクションしている間は連続して稼働する。マシンガンの射撃を撮影すれば、フィルムのコマには銃口からの閃光が写り、その非連続性を記録することが出来る。マシンガンによる暴力は銃撃が続くあいだカメラが回り続け、掃射はカメラのパンのようにその標的を流れながら「とらえて」いく。

『西部戦線異状なし(All Quiet on the Western Front, 1930)』のマシンガン掃射の場面は、そのカメラの移動がマシンガンの銃口の向きの移動と同期して、フレームに入った兵士が斃れていく。『ビッグ・コンボ(The Big Combo, 1955)』のマクルーアの射殺シーンでは沈黙のなかでマシンガンの銃口の閃光だけが映る。『俺たちに明日はない(Bonnie and Clyde, 1967)』のラストシーンはマシンガンの銃弾の衝撃がいかに身体を振動させるかをスローモーションで見せる。マシンガンのメカニズムと、フィルムのメカニズムは相互に相乗的に相性が良かったのだろう。

1934年以降のアメリカでは、表向きはギャングがマシンガンをそう簡単には所持し乱射することができなくなった。そしてスクリーン上でも、牙を抜かれて姿を消していく。しかし、マシンガンは別のかたちでアメリカの社会に関わってくる。第二次世界大戦への参戦とともに、若者たちが徴兵され、ノルマンディーへ、ソロモン諸島へ、沖縄へ送り込まれたのだ。彼らはギャングがかつて使ったトンプソン・マシンガンやM3サブマシンガンを持って、突撃してくる日本兵を撃った。それまで多くの市民にとってスクリーンの向こう側の出来事でしかなかったマシンガンのアクションが、さらに凶暴さを増して身近な事象となったのである。

『真昼の暴動』では、登場する銃器の大半がマシンガンである。看守たちを数で圧倒する囚人たちを制圧するには、銃器はひたすら弾丸を容赦なく吐き続けなければならない。監視塔の上から爆発寸前の囚人たちに向けてマシンガンが掃射される。カメラは監視塔の上から、マシンガンの視野から、下の囚人の群れを見下ろしている。それに向けて無差別に掃射される。囚人たちが銃口の向いている位置から画面の外に向かって逃げていくが、そのぽっかり空いた空間に犠牲者が銃弾を受けて倒れている。私達は、その無差別性―――特定の誰かを撃っているわけではない、そこにいる誰かに弾が当たれば良い―――に驚愕するとともに、地面に倒れている者たちを見てその非情な結末を確認する羽目になる。しかし、その無差別性は、戦争そのものが教えた新しいルールであり、「向こう側の人間なら誰でもかまわない」というロジックは第二次世界大戦を経験した世界では受け入れざるを得ないものになっていたのだ。

スタックがトロッコの前にくくりつけられて、看守たちのマシンガンの餌食になるシーンはさらに壮絶でむごたらしい。これも戦争が産み落とした「こっち側の人間でも(大義があれば)かまわない」というロジックだ。看守たちはそれでも進んでくるトロッコにマシンガンを向け、もう息のないスタックの身体にひたすら銃弾が撃ち込まれ続ける。これはプレコード時代のギャング映画の暴力表現とは別の地平にある。ギャングでマシンガンの銃弾を浴びるのは、特定された個人であり、その人間の隣の人間が銃弾を浴びたとしてもそれは流れ弾であって、意図されたものではない。『真昼の暴動』で銃弾を浴びるのは、「誰か」ではなく、「誰でもよい」のであって、極論すれば「肉の塊」でしかないのだ。被弾者から「人格」が奪われたのではない。最初から無いのだ。

 フラッシュバックの女たち

その「肉の塊」たちが本当は人格をもつ人間である、という前提を示すために、リチャード・ブルックスの脚本は四人の囚人の過去をフラッシュバックで物語る。その過去にはそれぞれ「女」が登場し、その女たち(アニタ・コルビー、エラ・レインズ、イヴォンヌ・デ・カーロ、アン・ブリス)が、囚人の男たちの別の次元を示すという仕組みだ。カシノで知り合った女、貧しいが愛する妻、不幸な愛人、そして癌を宣告された恋人。この男たちは、女たちへの想いが深いだけに罪を犯し、逃げ遅れ、捕まったのだ。

刑務所を舞台とした映画はどうしても一方の性別(この場合は男)だけの社会の描写になりがちだ。「ロマンス要素」を入れ込むことで、たとえバイオレンスが主体の映画でも女性観客にアピールすることができるというロジックが当時の業界紙にも登場するが、実際のところはよくわからない。この作品におけるデ・カーロのように、本格的にヒロインとして起用する前にテスト的に出演させてみる、という場合もあるだろう。

このフラッシュバックが、特にハワード・ダフとバート・ランカスターの場合に、外に出たいという動機として機能するべきなのだが、決して成功しているとは言えない。特にランカスターの場合には彼独特の単調な演技がここでは仇となっている。むしろランカスターの常に怒りを秘め、暴走寸前の「野蛮な力」を宿した筋肉の演技がこの作品を貫く鉄骨だとしたら、その鉄骨だけでも十分だったかもしれない。

『真昼の暴力』のフラッシュバックが平板な回顧シーンで終わってしまい、『市民ケーン』で提示された「フラッシュバックは決して事実である必要はないが、その主体にとっては真実である」というテーゼが十分に試されていないのは、題材が興味深いだけに残念である。もし、あのフラッシュバックに登場する本人たちの投影が、美化された自分たちの姿であったとしたら、そしてその自己陶酔が破れたとしたら、そうすれば後半の彼らの残忍な暴力性も、単なる造形された人物の劇ではなく、我々と通底する生身の人間の悲劇となったかもしれない。

収容所の記憶

力(power)と暴力(violence)は対極にある ハンナ・アーレント

看守長のムンジーが上着を脱ぎ、シャツ一枚になり、ワーグナーのレコードをかける。彼は、手錠で椅子に拘束された囚人のルイ・ミラーに脱獄の計画を吐かせようとする。ミラーは口を割らない。ムンジーは手に持ったゴムホースを振り上げてミラーに打ちつける。「タンホイザー」の序曲はそのサディズムを増幅する。

これは、ナチス・ドイツによるユダヤ人収容所と虐殺を惹起させるシーンだ。自己耽溺にまみれたムンジーは、弱者に対する暴力をワーグナーの音楽とともに楽しむ。リヒャルト・ワーグナーの音楽を、アーリア人種の優越性の演出のために耽溺的に使用したナチスの文化政策は、戦後2年で見事にアイコン化されている。

現代の私たちは、ホロコーストは歴史上の事実として、過去に起きたこととして、その映像を繰り返し目にしてきた。だが、1940年代の世界はその事実を進行形の事柄として知ることになる。それは多くの人にとって、現在進行形というよりも過去進行形の事象としてであろう。「私が・・・していたあの時、アウシュヴィッツでこんなことが起きていた」という進行形である。1945年の3月が恐らくユダヤ人強制収容所のフィルムが撮影された最初である。このにわかには信じがたい事態を、フィルムに焼き付けることが連合軍にとっては急務であった。そしてハリウッドの映画人達のなかには「ホロコーストをフィルムに焼き付ける行為」に参加した者たちがいる。『Death Mills/Die Todesmühlen (1945)』はビリー・ワイルダーが編集と英語版の製作を担当、『The Nazi Concentration Camps (1945)』はジョージ・スティーブンスが監督、『The Nazi Plan (1945)』はバド・シュルバーグとスティーブンスが脚本、監督をしている。スティーブンスは1943年から従軍、ダッハウの解放に立ち会い、その様子をカラーフィルムでおさめている。

撮影はやらなきゃいけなかったんだが、嫌だった。・・・彼らにとっちゃ、ようやくドイツ軍の豚野郎どもを追い出したのに、今度は別の豚野郎どもが顔にカメラを突っ込んできているんだ。 ジョージ・スティーブンス

ホロコーストを最初に焼き付けたフィルムを見ていると、カメラが無力に「すべてが終わったあと」を記録しようとしていることが分かる。しかし、その記録さえあやふやで揺らいでいる。

1945年以降、映画はナチスの残虐性を様々なかたちで再現しようとしてきた。それを人間の奥底に潜む残虐性として復活させ、問い詰めようとした。カリカチュアとして蘇生させて殺し、悪玉として蘇らせてばらばらにした。最も残虐な殺しを楽しむ殺人鬼は、ワーグナーを聞きながら無力の人間を苛んで喜びの微笑を浮かべる。そういったイメージが繰り返し再生産されてきた。これは「すべてが終わる」前の、あの過去の時点に戻り、そこに立ち会うことで「すべてが終わったあと」の無力感を回避する試みのようにも思える。

ムンジーのようにたった一人の人間がサディストだからといって、暴力がシステム化され監獄が成立することはない。むしろ、どこの村や街にもいるような普通の人間が、ワーグナーよりは酒場で唄う歌のほうが好きな人間たちが、山のように積み上げられたユダヤ人の死体を見ても何も思わないほどに変貌することのほうが、暴力のシステム化には役立つのだ。だが、それは1時間30分で消化する物語としてはあまりに食べにくい。

『真昼の暴動』のムンジーのように超人化され、キャラクター化されたサディストは、その後もハリウッド映画に繰りかえし登場する。そして私達は今でも、自分たちとは違う次元の「異なる能力のある」人間のみが、世界を揺るがすような善をはたらいたり、悪を成したりする、そういう物語を夢見ている。

ジョージ・スティーブンスは、1960年代にバーゲン・ベルゼンの強制収容所を再度訪れている。もう地図にも載っていないその土地はすっかり忘れられていたが、スティーブンスはアンネ・フランクがいたであろう場所を歩いた。バーゲン・ベルゼンの初代所長、アドルフ・ハースは元はパン屋、「ベルゼンの野獣」と呼ばれた2代目所長、ヨーゼフ・クラーマーはデパート店員だった。

『真昼の暴動』我々の中にいるサディスト

Links

TCMのサイトでは、マーク・フランケルの批評を読むことができる。バート・ランカスターのインタビューなどを引用しながら、この作品のフラッシュバックについて言及している。

アルカトラズの歴史を紹介する「Alcatraz History」では、この作品の下敷きとなったと言われる「アルカトラズの闘い」について詳細に紹介している。

Data

ユニバーサル・インターナショナル配給 6/30/1947公開
B&W 1.37:1
98分

製作マーク・ヘリンジャー
Mark Hellinger
出演バート・ランカスター
Burt Lancaster
監督ジュールズ・ダッシン
Jules Dassin
ヒューム・クローニン
Hume Cronyn
脚本リチャード・ブルックス
Richard Brooks
チャールズ・ビックフォード
Charles Bickford
撮影ウィリアム・ダニエルズ
William Daniels
ジョン・ホイト
John Hoyt
音楽ミクロス・ロージャ
Miklós Rózsa
ジェフ・コーリー
Jeff Corey
編集エドワード・カーティス
Edward Curtiss
サー・ランスロット
Sir Lancelot

Reference

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