Border Incident
MGM配給
1949
ロケーションで撮影したんだが、MGMの好みじゃなかったんだね。出来上がったときには、MGMの連中は口をあんぐり開けて見ていたよ。これは映画のあるべき姿ではない!ということだったらしい。
アンソニー・マン
Synopsis
メキシコからアメリカへやってくる労働者──ブラセロと呼ばれる──の数は制限され、多くのメキシコ人は国境で待たされている。なかには、不法に入国して農場で働き、また不法にメキシコに戻ろうとする者達もいる。しかし、彼らを食い物にしている農場経営者とその手下の連中がいた。メキシコに戻る途中の不法労働者を国境地帯で殺して、金銭を巻き上げるのだ。この悪事を暴くべく、メキシコとアメリカの捜査当局が協力して捜査に乗り出した。メキシコからの捜査官、パブロ・ロドリゲス(リカルド・モンタルバン)は、不法入国を試みるメキシコ人として、アメリカからの捜査官、ジャック・バーンズ(ジョージ・マーフィ)は農場経営者オーウェン(ハワード・ダ・シルヴァ)に違法に許可証を売る男として潜入する。潜入捜査は順調に密入国マフィアの核心に迫っていたが、オーウェンはジャックを完全には信用していなかった。
Quote
いちど、自分のやってる悪行をその目でよく見とくんだな
ジェフ(チャールズ・マッグロー)
Production
ブラセロ・プログラム
1942年から1964年まで、カリフォルニア州、アリゾナ州、テキサス州など西南部の農家は、収穫時の労働者をメキシコからの<ブラセロ>に依存していた。
このブラセロは1942年にアメリカ政府の国務省、労働省、移民帰化局がはじめたプログラムである。アメリカの第二次世界大戦参戦とともに、国内の労働力が軍需を中心とした製造業に集中し、農業を中心とした第一次産業の労働力確保が重要な課題となりつつあった。そこで、労働力をメキシコから提供して貰う代わりに、時給30セントと快適な労働条件を提供するという条約をメキシコ政府とのあいだに取り交わしたのである。ところが、この条約に記載されている事項を無視する農業経営者があとを絶たなかった。更には、「ウェットバック」と呼ばれる不法移民を低賃金で雇用する経営者も少なからずいた。
特に労働条件の不履行を重く見たメキシコ政府は、アメリカ国内の労働力需要の増加に対応して労働力を提供することに難色を示すようになった。
この国のどこよりも、この地域は南の隣国からの安くて豊富な労働力に依存している。だが、メキシコ政府はこれからは時給40セント未満では自国の労働者を提供しないと決めた。この地域では、雇用契約書に時給25セントの記載があるのがザラだそうだ。時給40セントを出さないとメキシコ政府が承認しなくなるのが本当なら、農業経営者は最低賃金を引き上げないといけない。もちろん、今まででもそうだったが、安く雇える不法入国者(「ウェットバック」と呼ばれる)もたくさんいるだろう。だが、移民局からの通達にもあるように、今雇っているウェットバックも合法化しないと、移民局が乗り込んできてすぐに強制送還することになる。
1949年9月 テキサス州ハーリントン「ヴァレー・モーニング・スター」紙
このテキサスの新聞記事に見られるように、農家はアメリカ=メキシコ両国の取り決めは平然と破られ、不法入国者も平気で雇っていた。テキサス州は人種差別も激しく、メキシコ政府から名指しでブラセロの許可を拒否されていた時期もあった。
さらに、このブラセロの問題をクローズアップするような事故が発生してしまう。
1948年1月28日、カリフォルニア州のロス・ガトス・クリークに、メキシコ人労働者29人を乗せたDC-3機が墜落、乗組員も含め全員が死亡した。このメキシコ人労働者は大部分がブラセロとして合法的に帰還する途中の者だったが、数人は不法入国者だった。事故当時、ニューヨーク・タイムズを含むメディアが、機長などのアメリカ人の死亡者の名前を報道する一方で、死亡したメキシコ人たちを「Deportee」とだけ報道した。メキシコ国籍の被害者を無視したこの報道姿勢に怒りを覚えたウディ・ガスリーは「追放者たち(Deportee)」を作詞・作曲して発表している。
ブラセロ・プログラムは、1948年に期間延長の議論に入った。『国境事件』はこの時期に製作された作品である。
原作・脚本
『国境事件』は、もともとはイーグル・ライオンで始まった計画だった。
1947年10月にジョージ・ズッカーマンが24ページのストーリー「Border Patrol」を執筆した。1948年はじめには、ズッカーマンはプロジェクトを離れ、ブライアン・フォイが製作担当になった。このときのタイトルは「Wetbacks」だった。しかし、フォイもすぐに離れ、ジョン・C・ヒギンズとウィリアム・カツェルが担当になる。このとき、イーグル・ライオンは、ヒット作にあやかって、タイトルを「T-Men on the Border」とした。ヒギンスとカツェルはメキシコにロケハンに出かける。
1948年6月にヒギンズが脚本に着手、このときの題名は「Border Patrol」だった。この後、脚本は度重なる修正、加筆、削除を重ねる。9月に完成した稿ではホアン(映画ではジョニー・ミッチェルが演じている)が主人公だったという。結末では、ホアンが密入国マフィアをメキシコの捜査部隊に引き渡すことになっていた。
MGMに計画が移ったころから、ホアンの存在が縮小されていき、パブロのキャラクターが導入され(1948年10月)、ナレーションがメッセージ性を帯びていった(1948年11月)。オープニングで3人の不法入国者が殺害されたあと、ナレーションの「この、アイデンティティも失った、さほど重要でもない男たち」という言葉に重ねて、高空を飛ぶDC-3機の映像があらわれる。「さほど重要でもない男たち」と墜落して亡くなった人々を重ね合わせて、アメリカ社会の無関心を告発しているのである。しかし、このオープニングのナレーションが削除されたかと思うと、今度は『T-メン』をそのままコピーして、移住帰化局の局長の演説から映画が始まるというバージョンもあった(1949年1月)。アメリカの無責任さを告発したようなナレーションから一転、アメリカ政府のプロパガンダのような色彩を帯びるのも、当時の情勢を反映しているのかもしれない。下院非米活動委員会(HUAC)による公聴会、ハリウッド・スタジオのブラックリストによる左派映画人の排除、といったレッド・パージ(赤狩り)が始まっていた。一行でも政府に批判的なセリフやシーンを書くと、共産党員だと疑われたり、公聴会に呼ばれたりするかもしれない。そういった懸念がヒギンスやマンの心中をよぎったとしても、まったく不思議ではない。ハリウッドは非常に神経質になっていた。
だが、この『T-メン』のような政府要人の演説のアイディアは結局却下され、最終的には、ブラセロが働く農地の航空撮影にドライなナレーションがかぶさるオープニングとなった。
シェンク、シャリー、ネイファック
イーグル・ライオンで始まったこのプロジェクトがMGMに移ったのは、ドア・シャリーの尽力によるものだ。RKOでハワード・ヒューズとそりが合わず、MGMに移ってきたシャリーは、製作副主任としてコストダウンを期待されていた。これは戦後の観客の嗜好の変化に、保守的で浪費癖のあるMGMがどのように対応していくかという問いに対する試みの一つだったと言ってよい。シャリーは早速、当時低予算にもかかわらず観客を釘付けにするミステリ、サスペンス映画を作っていたイーグル・ライオンのアンソニー・マンとジョン・オルトンのコンビに目をつける。シャリーは、『国境事件』の映画化をイーグル・ライオンから5,000ドルで譲り受け、マン=オルトンのコンビとも契約した。MGMは予算を550,000ドルと設定したが、これは当時のMGMの映画製作費としては圧倒的に低い。
しかし、もうひとつ忘れてはならないハリウッドのルールがある。ハリウッドでは必ず、シェンク一族のネットワークに絡み取られていく、というルールだ。
20世紀前半のハリウッドは、ジョセフ・シェンク(1876-1961)と、ニコラス・シェンク(1880 -1969)の二人で、その半分以上をコントロールされていたと言っても過言ではないだろう。ジョセフは、ユナイテッド・アーチスツのトップから、1933年にダリル・F・ザナックと20世紀ピクチャーズを創設、その後、フォックス・フィルムを吸収して20世紀フォックスという巨大スタジオを作り上げた男だ。一方、弟のニコラスは配給チェーン、ロウズ・インクの重役で、MGMの財務をニューヨークからコントロールした。MGMのボス、ルイ・B・メイヤーでさえ、ニコラスには簡単に締め上げられた。
『国境事件』の製作にはニコラス・ネイファック(1909 – 1958)がクレジットされている。この映画はネイファックにとって初めてのプロデュース作品になる。ニコラス・ネイファックは、ジョセフとニコラスのシェンク兄弟の妹、アン・ネイファックの息子である。つまり、MGMの実権を握る男、ニコラス・シェンクと二十世紀フォックスの実権を握る男、ジョセフ・シェンクの甥にあたる。
ニコラス・ネイファックは、1934年にフォックス・フィルムに弁護士として入社した。これは、伯父のジョセフ・シェンクの二十世紀ピクチャーズがフォックス・フィルムを吸収するタイミングと重なっていて興味深い。1936年にMGMに入社。1939年のMGMのビオフ・スキャンダルでは、証言台にも立っている。1937年に歌手のリン・カーヴァーと結婚。第二次大戦中は海軍少佐として従軍、1949年にMGMにプロデューサーとして復帰した。その第一作が『国境事件』である。ネイファックのプロデューサーとしての代表作は『禁断の惑星(Forbidden Planet, 1956)』だろう。ドア・シャリーがSF映画なんて冗談じゃないと反対するのを押し切って製作、大ヒットした。この映画の監督が、フレッド・M・ウィルコックス(1907 – 1962)、やはりニコラス・シェンクの義理の甥にあたる。
実はもともとイーグル・ライオンで『T-メン』に製作に関わったのが、オーブリー・シェンク、彼もジョセフ/ニコラス・シェンクの甥にあたる。つまり、アンソニー・マンとジョン・オルトンは、シェンク兄弟の甥の一人から、別の甥に渡り歩いて、フィルム・ノワールを撮り続けていたとも言える。
配役と撮影
この映画の場合、まず、メキシコ人の主役パブロの役を決めなければならない。他のスタジオと違って、MGMにはエキゾティックな国外を舞台とした映画が多く、契約下にある俳優たちも比較的多様な人種、国籍に富んでいた(だからといって、リベラルな雰囲気だったわけではない)。この『国境事件』にはリカルド・モンタルバン(1920 – 2009)に白羽の矢が立った。
リカルド・モンタルバンはメキシコ・シティ生まれ。すでにハリウッドで映画に端役として出演していた兄のカルロスを頼ってアメリカに移住した。しかし、ヒスパニック系のエキストラや端役が多かったため、いったん1941年にメキシコに戻っている。そこでノーマン・フォスター監督の映画[”Santa (1943)”、”The Hour of Truth (1945)”]に出演した。エステル・ウィリアムズ主演の『フィエスタ(Fiesta, 1947)』の相手役の闘牛士を探していたMGMがモンタルバンに目をつけて契約し、再びハリウッドに移る。ウィリアムズとの映画に出演後、『国境事件』で初の主演に抜擢された。その後『ミステリー・ストリート(Mystery Street, 1950)』でも主演で出演している。1950年代以降、ウィリアム・ウェルマンの作品などでヒスパニック系を含むエキゾチックな役柄を演じていたが、主演を勝ち取ることは多くなかった。アメリカ国内ではTVに活動の舞台を移す一方で、イタリアを中心にヨーロッパ映画に数多く出演した。
今の映画ファンの間では、モンタルバンといえば、1977年からの人気TVシリーズ「ファンタジー・アイランド」のミスター・ローク、「スター・トレック」シリーズのカーン役で有名であろう。モンタルバンは先天性の脊髄動静脈奇形に悩まされていた。1951年の映画『ミズーリ横断(Across the Wide Missouri, 1951)』の撮影中に落馬して、さらに悪化させてしまった。それ以来、常に痛みに悩まされ続けていたという。
ジャック・バーンズ役を演じたジョージ・マーフィー(1902 – 1992)は、1930年代からMGMのミュージカル・スターとして人気の絶頂にあった。『踊るニュウ・ヨーク 1940(Broadway Melody of 1940 (1940)』などがこの頃の代表作である。1944年から1946年までスクリーン・アクターズ・ギルドの会長をつとめた後、保守政治に積極的に参加するようになる。1952年にMGMを退社後、デジル・プロダクションズやテクニカラーで重役を務めた。1964年に共和党の下院候補として出馬し当選、1971年までつとめる。彼は共和党の広告塔として人気政治家だった。
『国境事件』の撮影は1949年1月27日に開始され、約1ヶ月ほどでクランクアップした。アンソニー・マンは『国境事件』の撮影の準備に2ヶ月ほどしかかけられていないという。計画では1月中にロケーション撮影を始める予定だったが、雨続きで延期された。その間、MGMのスタジオで室内シーンの撮影が行われている。2月8日にメキシコの国境に面したインペリアル郡のエル・セントロに撮影隊が移動、ロケーション撮影を2~3週間にわたっておこなった。8日間にわたって夜間撮影が行われた。ペインテッド・ゴージ、スーパースティション・マウンテンズなどで撮影が行われた。
撮影監督のジョン・オルトンは、夜のシーンの多くをフィルターを使って昼間に撮影している(デイ・フォー・ナイト)。ただし、ジャックがトラクターで轢き殺されるシーンは夜間に撮影された(ナイト・フォー・ナイト)。
3月はじめには編集、録音が行われた。音楽の担当は弱冠19歳のアンドレ・プレヴィン(1929- 2019)である。彼の父親のいとこにユニバーサル・スタジオで音楽を担当していたチャールズ・プレヴィン(1888 – 1973)がいた。アンドレは、映画音楽だけでなく、ジャズ、クラシックの広い分野で活躍した。多くの人にとっては、ミア・ファローの夫として有名かもしれない。
最終的には、製作に741,000ドルかかった。MGMの映画としては破格の低予算である。
Reception
MGMは『国境事件』をヴァン・ジョンソン主演の『シーン・オブ・ザ・クライム(Scene of the Crime, 1949)』の添え物として公開した。ロサンジェルスではエジプシャンを含む3劇場で上映されたが、強い反響は得られていない。その後、シカゴほか全国に展開されたが全体的に低調なビジネスだった。
Variety誌は、映画のジャンル性が題材とちぐはくになっている点を厳しく指摘している。
この映画は脚本に足を引っ張られている。不法入国者の問題という重要な題材を青臭い警察=泥棒映画にしてしまっている。イーグル・ライオンの『夜歩く男』で注目に値する仕事をしてMGMに連れてこられたアンソニー・マンはアクション・シーンでは緊迫感をもたらすことに成功しているが、映画自体は定型を打ち破ることができていない。
Variety
ジョン・オルトンの撮影は評価が高い。
この興行作品は、リアリスティックでかつ色彩豊かだ。驚くべきジョン・オルトンの白黒撮影は現場の背景にアクセントを与えている。
Motion Picture Daily
ニューヨーク・タイムズのボズリー・クローサーもストーリーに満足していなかったが、俳優陣と監督には称賛を送っている。
物語は全体的に論理性に欠け、仕掛けじみていて、リアリティがない。しかし、この作りごとの冒険譚のなかで、ジョージ・マーフィーとリカルド・モンタルバンは真面目な国境捜査官を、ハワード・ダ・シルヴァは違法に入国させた「ブラセロ」を利用するアメリカの悪の農場主を見事に演じている。同様に、チャールズ・マッグローは血を好む農場監督として、アーノルド・モスとアルフォンソ・ベドヤは簡単に金で動くメキシコ人として好演している。そして、アンソニー・マンは、ホアキン・ヴァレーの灌漑溝や農場の幾何学的な美しさをカメラで上手くとらえている。
New York Times
ボードとショーモンは、「Panorama Of American Film Noir」のなかで『国境事件』を1949年頃からハリウッドにあらわれる、社会的なテーマを扱いつつも<ノワール>の暴力性を援用した作品のなかでも最も重要な作品のひとつと位置づけた。
メキシコからの労働力の搾取という、アメリカ国内ではあまり人気のないテーマをあつかっているためか、アンソニー・マンの作品群のなかでも『T-メン』や『夜歩く男』などのイーグル・ライオン時代の作品に比べて注目をあびることは少なかった。「再発見されるべき40作」の著者ジョン・ディレロは『T-メン』と比較しても、題材に人間性が溢れ、独特の良さがあると高く評価している。
Analysis
アンソニー・マンの転換点
『国境事件』がアンソニー・マンのキャリアにとって大きな転換点だったことは今まで幾度となく指摘されてきた。1940年代のイーグル・ライオンでの低予算映画から、1950年代のメジャー・スタジオでの活躍への転換点、犯罪者の世界を描いた時代から西部劇への転換点、そして彼独自の映像文法/スタイルを確立した転換点、と様々な切り口から分析されてきた。ジアニン・ベイジンジャーは、マンが『国境事件』で確立した映像文法として以下を挙げている。
1. 特定の背景に特定の構図を使って意味を確立する
2. この構図の中で人物を動かして、意味を再調整する
3. 必要に応じてカメラを動かして意味を再調整(あるいは再定義)する
4. これらの再定義や調整の可能性を十分に生かした、あるいは/または使い尽くしたらカットする
ベイジンジャーは、この特有の文法の例として、オーウェン(ハワード・ダ・シルヴァ)に半ば監禁されている状態のジャック・バーンズ(ジョージ・マーフィ)にパブロ・ロドリゲス(リカルド・モンタルバン)が会いに行くシーンを挙げている。夜闇に紛れてパブロがジャックが監禁されている給水塔小屋に登っていくと、音に気付いたオーウェンの手下が動き始める。パブロがへの外からジャックに話しかけ、オーウェンの手下が階段を上ってくる。これが一つのフレームに収められている。気付いたパブロは給水塔へ上り、手下が怪しんで後を追う・・・この一連の動きをよく見ると、ある構図を使って空間を提示すると、その構図のなかで人物が動き、そこで起きた緊張の解決を別の構図で行っていく、これを繰り返しているのがわかる。一見、複雑に見える逃走=追跡の動きだが、空間の提示を特徴的な構図でおこなっているだけで、演出的にも、また語りの仕組みとしても効率的にできあがっている。
ひとつの空間を複数の構図でとらえて、緊張と解決をもたらす。これは、オーウェンのオフィスでジャックとオーウェンが取引をする様子、そして正体がバレて追い詰められていくプロセスなどでも同じだ。一つの構図で緊張が高まると、次の構図でいったん解決させ、さらにまた緊張が始まる。この語り口は、緊張を長く持続させることができるため、マンの演出方法としては重要なものになっていく。
また、都市部のフィルム・ノワールから、西部劇の時代への転換点という側面も重要だろう。これは、ハリウッドの映画製作が西部劇に対するアプローチを変えていった時代と重なっている。第二次世界大戦中から戦後にかけてアメリカ国内でハイウェイの整備が急激に進んでいく。このハイウェイのおかげで今まで<未踏の地>だった場所も自動車でアクセスできるようになっていく。ジョン・フォードがこの頃からモニュメント・ヴァレーを背景に西部劇を多作するのも偶然ではない。戦前、『駅馬車(Stagecoach, 1939)』を監督したときには、モニュメント・ヴァレーはまだ未踏の地だった。1936年に科学調査団が結成され、この地域の生物学的、考古学的調査が行われている。この時にはフォード・モーターズが調査用のV-8トラックとステーション・ワゴンを提供していた。理由は明確で、当時ユタ高速道路委員会がモニュメント・ヴァレーへの高速道路延長を協議していたからだ。ナヴァホの居留区としてではなく、観光地としての<活用>を検討し始めた時期にあたる。それが1940年代に結実し、ジョン・フォードの映画群はモニュメント・ヴァレーをアメリカ西部の象徴的風景として称揚する触媒となった。『国境事件』の場合も、ロケーション撮影が行われたエル・セントロは1930年代から40年代にルート80が整備されて、よりカリフォルニアにとって近い場所になった。こういった<前世紀の風景>に容易にアクセスできるようになったことは、カラー映画、ワイドスクリーンの登場とともに西部劇への可能性を大きく広げたのである。
一方で、ロケーション撮影に必要なテクノロジーは決して十分ではなかった。特に照明、録音の技術が不足していた。夜間の撮影は、照明に必要な電源の確保が頻繁に問題となり、十分な光量を確保できないことが多い。『国境事件』でも、夜間のシーンで照明の問題を解決するよりも、昼間にフィルターを使って夜のシーンに見せる、いわゆる「デイ・フォー・ナイト」撮影が随所で採用されている。しかし、フィルターによるグレースケールの減縮・歪みが著しく、あまり良い結果になっていない。ウィリアム・A・ウェルマン監督が『女群西部へ!(Westward the Women!, 1951)』を監督した際に、重要なシーンを赤外線フィルムを使って「デイ・フォー・ナイト」撮影しようと考えていたが、撮影監督のウィリアム・C・メラーが、他のシーンの映像との一貫性を考えて止めるように監督を説得したという話がある。
前述のようにアンソニー・マンとジョン・オルトンをMGMに呼んだのは、ドア・シャリーと言われているが、そのシャリー自身がMGMではまだ未知数だった。彼がMGMにもたらそうと考えていた改革はどのようなものだったのだろうか。
フィルム・ノワール二本立て
現在のフィルム・ノワール批評では、アンソニー・マンという軸から『国境事件』がMGMの数少ないフィルム・ノワール作品として議論されることが多い。しかし、ドア・シャリーの目論見は、『シーン・オブ・ザ・クライム(Scene of the Crime, 1949)』に『国境事件』を添え物にして、二本立てとして公開することだった。
『シーン・オブ・ザ・クライム』は、ロイ・ローランド監督、ヴァン・ジョンソン主演の警察捜査を中心としたサスペンス・アクションである。ほとんど顧みられることのない映画だが、フィルム・ノワールとして分類されるべき映画の一つであろう。同僚の警察官が射殺されたことをきっかけに、ヴァン・ジョンソン演じるマイク・コノヴァン刑事がロサンジェルスの街に巣食う犯罪組織の捜査に乗り出す話である。ヴァン・ジョンソンにハードボイルドなキャラクターを演じることができるか試した作品だが、明らかに力不足だったし、本人も乗り気ではなかったようだ。この映画は全体的にバランスが悪く、セットで撮影されたシーンのフラットさとロケーション撮影の奥行きの深さがマッチしておらず、ストーリーも犯罪捜査と刑事の夫婦関係を往復して焦点が定まらない。しかし、極めて印象深い側面もあり、見終わったあとも奇妙な後味がある。グロリア・デヘイヴン演じるストリッパーの悪女ぶりには驚かされるし、 情報屋スリーパーを演じるノーマン・ロイドの不気味さと滑稽さを見事にブレンドした演技には圧倒される。ロケーション撮影は、この時期のハリウッドのフィルム・ノワールのなかでも図抜けて説得力がある。ラストの銃撃戦は、おそらくここまでの激烈さを当時の観客は誰も予想していなかっただろう。
この『シーン・オブ・ザ・クライム』と比較すると『国境事件』はまったくユーモアに欠けていることに気づく。『シーン・オブ・ザ・クライム』が質の良いユーモアに恵まれているというわけではない。むしろ滑っている部分も多いだろう。だが、ノーマン・ロイド演じるスリーパーのひたすら機関銃のように叩き出されるセリフと、口癖の「Yak, yak」が頭にこびりついて離れない。1930年代から繰り返し磨き上げられてきたハリウッドのシナリオ・ライティングの好例だ。
『国境事件』の脚本を担当したジョン・C・ヒギンズは、1930年代後半にMGMで短編映画、主に「犯罪は割に合わない(Crime Does Not Pay)」シリーズなどを経て、MGMの添え物の脚本を書いていた。しかし、1946年以降、イーグル・ライオンで『偽証(Railroaded!, 1947)』、『T-メン(T-Men, 1947)』、『脱獄の掟(Raw Deal, 1948)』、『夜歩く男(He Walked by Night, 1949)』などのアンソニー・マン監督の映画の脚本を担当している。ヒギンズは1930年代から犯罪映画専門の脚本家だったのだ。しかも長いあいだ短編映画専門だったために、短い時間の中に最低限のプロット要素を詰め込むスタイルが身についてしまったようにも見える。例えば『メイン・ストリート・アフター・ミッドナイト(Main Street After Midnight, 1945)』は、ダン・デュリエやヒューム・クローニン、オードリー・トッターといった興味深い俳優が出演しているにも関わらず、あまり活かされていない。こういった脚本の性格が、アンソニー・マンの初期のスタイルを決定づけていることは間違いない。陰気で破滅的、ユーモアのない世界である。この点はリチャード・フライシャー監督の『その女を殺せ(The Narrow Margin, 1952)』の分析でも述べたが、1940年代以降のハリウッド作品では、コメディ・リリーフを入れないという選択によって、より引き締まった演出になり、他の同時代の作品と比べても後世の私達がアクセスしやすいものになったという側面がある。アンソニー・マン/ジョン・C・ヒギンズの作品は最初から最後まで<真面目>で、社会の暴力的な暗部を斜に構えずに正面からとらえる姿勢に貫かれている。
映像へのアプローチ自体も、『シーン・オブ・ザ・クライム』と『国境事件』では大きく異なっている。『国境事件』は、全体を通じて高低差を利用した奥行きのある構図、人物を近くに配して広角レンズでとらえるディープ・フォーカスの構図などが支配的だ。一方で『シーン・オブ・ザ・クライム』はセットを含めた全体的にフラットな照明と構図で構成されている。そのために、夜のロサンゼルスでロケーション撮影されたシーンとの不整合が著しく、全体として散漫な印象を受けてしまう。
例えば、『シーン・オブ・ザ・クライム』に登場する<ヒッポズ・コーヒー・ポット>という店の交差点の撮影を見ると、この不整合がよく分かる。これはロサンゼルスのスキッド・ロウでロケーション撮影された。車が交差点に到着するショットはロケーション撮影だが、トム・ドレークがヴァン・ジョンソンと会話をする次のショットはバック・プロジェクション、そしてまたロケーション撮影のショットに戻る。このつながりの悪さが、ロケーション撮影の肌触りを台無しにしている。『国境事件』は、その点において常にロケーション撮影のショットが主体で、バック・プロジェクションやプロセス・ショットを挿入することは極めて少ない。唯一不整合が見えるのは、冒頭とクライマックスの国境地帯でのシーンである。底なし沼のシーンは、全体的に暗いトーンでなんとかごまかそうとしているものの、不自然な植生や照明のせいでスタジオセットでの撮影であることがわかってしまう。
『国境事件』で、アンソニー・マンとジョン・オルトンは、極近景に人物を配置し、中景~遠景に別の人物を配置して奥行きのある構図を基調として選択している。これは作品全体を通して、登場人物のあいだの力学を描写するための重要な鍵となっている。オフィスでオーウェンとジャックが取引をする際には、画面奥側にジェフを配置して緊張を高めるだけでなく、ジャックにはジェフの顔が見えないという仕掛けを使って、その後のジャックの運命を暗示している。ジャックが殺害されるシーンでは、ジャックを助けようと夜闇に紛れて近づくパブロとホアンがダイナミックな構図でとらえられている。地面すれすれに設置されたカメラに向かって、二人が走ってくる。そしてカメラの直前で勢いよく地面に伏せる。二人の強烈なクロースアップは、この残虐なシーンのテンションを最大限に高める効果に一役買っている。
とはいえ、当時のMGMの作品群のなかでも、この2作はかなり凶暴な表現を試みているだろう。『国境事件』でジョージ・マーフィー演じるジャックがトラクターに轢き殺されるシーンは耐え難いまでの残虐性に満ちている。一方、『シーン・オブ・ザ・クライム』でも、夜闇の裏通りで、スリーパーの死体が街灯に吊り下げられいている様子──しかも、それを見つけたコノヴァン刑事たちは、またスリーパーがふざけているのだと勘違いする──はやはり当時としては常軌を逸した残虐さだ。このようなアプローチをみると、若干ニュアンスは違うものの、『シーン・オブ・ザ・クライム』と『国境事件』は、それまでのMGMの型から逸脱し、変化する観客の嗜好に応じようとして企てられた二本立てだったと理解できる。そしてその企てはドア・シャリーによるものだったのは明らかだ。
ドア・シャリーのMGM改造はこれにとどまらない。彼は1949年の末にウィリアム・ウェルマン監督の『戦場(Battleground, 1949)』を製作し、これがMGMとしては数年ぶりの大ヒットとなった。RKOから担ぎ込んだプロジェクトで、ルイ・B・メイヤーは戦争映画に反対していたが、見事に成功した。メイヤーは1951年に長年トップをつとめたMGMを去る。
Links
Greenbrier Picture Showsでは、『国境事件』について「ドア・シャリーとMGMのおかげで、イーグル・ライオンから移籍してきたチームは、元いたところでもそうだったように、生々しさ全開で作品に取り組んだ」とその暴力表現について述べている。製作時のスチールなども豊富に掲載されている。『シーン・オブ・ザ・クライム』の記事も製作時のスナップなどが掲載されている。
Senses of Cinemaでは、オーソン・ウェルズの『黒い罠』やサム・ペキンパーの作品と対比させつつ、『国境事件』がアメリカとメキシコの国境の物語をいかに語っているかを述べている。『国境事件』はウェルズやペキンパーの作品と違って、経済格差について切り込んでおり、「違いは<ソフィスティケーション/洗練さ>とサイズの問題となっている:メキシコ側にはナイフで喉をかき切る強盗や密輸業者、偽造屋がいる;アメリカ側には技術に長けていて、人間も多く、それで弱い人間を食い物にしている。」と指摘している。
Data
MGM配給 1949/10/28 公開
B&W 1.37:1
94分
製作 | ニコラス・ネイファック Nicholas Nayfack | 出演 | リカルド・モンタルバン Ricardo Montalbán |
監督 | アンソニー・マン Anthony Mann | ジョージ・マーフィー George Murphy |
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脚本 | ジョン・C・ヒギンズ John C. Higgins | ハワード・ダ・シルヴァ Howard Da Silva |
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原作 | ジョージ・ズッカーマン George Zuckerman | ジェームス・ミッチェル James Mitchell |
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撮影 | ジョン・オルトン John Alton | ||
編集 | コンラッド・A・ナーヴィグ Conrad A. Nervig | ||
音楽 | アンドレ・プレヴィン André Previn |