Gun Crazy
ユナイテッド・アーチスツ配給 1950
デミルは大作を監督しているのかもしれないが、おれたちに言わせりゃ、下衆なやつだね
モーリス・キング
Synopsis
バート(ジョン・ダール)は子供の頃から銃に取り憑かれていた。彼は銃を撃つのが好きで腕も良かったが、命あるものを撃つことだけはできなかった。どうしても銃を手に入れたい衝動から店のショーウィンドウにあった銃を盗みだしたバートは、窃盗罪で感化院に送られてしまう。長い不在ののち、彼は故郷に戻ってくる。友人たちに誘われて見に行ったカーニバルで射撃の芸当をみせるローリー(ペギー・カミンズ)に、バートはひと目会った瞬間から惹かれてしまう。バートもカーニバルに加わり、ローリーとペアを組むが、ローリーとバートの仲を面白く思わない座長と険悪になる。彼らはカーニバルの一座を離れ、結婚するものの、あっという間に持ち金が底をついてしまう。ローリーがバートを犯罪の奈落に引き込んだ。はじめはガソリンスタンドやタバコ屋での強盗だった。そこから彼らの犯罪はエスカレートしていく。店や銀行を次々と襲っていく二人だが、人に向けて発砲できないバートとは対照的に、ローリーは激昂すると衝動的に発砲してしまう。犯罪を重ねるごとに、バートとローリーはお互いにとってより深く離れがたい存在となっていく。二人が「これが最後の仕事」と約束して潜り込んだのが、食肉加工工場だった。二人は社員として働きながら、給料日をねらっていた。当日、計画通りに秘書と社長に銃を突きつけて金庫から大金を盗み出すものの、ローリーが秘書と警備員を撃ってしまう。二台の車で別々に逃走する予定だったが、もはやバートとローリーはお互いなくしては生きてはいけなかった。シカゴで夢のような夜を過ごすものの、盗んだ紙幣からすぐに足がついてしまう。殺人の容疑もかかった彼らには、大規模な捜査網が迫ってくる。逃げ場を失い、持ち金も底をついた二人は、バートの故郷に向かう。
Quote
ローリー、俺たちはいつも一緒だ。どうしてかはわからない。銃と弾みたいなものなんだろう。
バート
Production
コジンスキー兄弟
『拳銃魔』はコジンスキー/キング兄弟によって製作された作品である。
モーリス、フランク、ハーマンのキング三兄弟は、ザ・キング・ブラザーズ・プロダクションを1941年頃に設立し、ポヴァティ・ロウのモノグラムやPRCを配給として映画を公開していた。1945年に製作費わずか193,000ドルの『犯罪王デリンジャー(Dillinger, 1945)』が大ヒットし、4,000,000ドルの興行収入を記録、ポヴァティ・ロウのなかでも注目を浴びる存在となっていた。
『犯罪王デリンジャー』が公開された3年後の1948年、雑誌「LIFE」がキング兄弟の特集記事を掲載している[1]。キング兄弟はユダヤ系移民の子で本名をコジンスキーという。ニューヨークの東10番街で幼少時代を過ごし、一家はシカゴを経てロサンゼルスに移ってきた。ティーンエージャーとなったモーリスとフランクはロサンゼルスの街角で新聞を売り始めるが、そのうちモーリスは酒の密売に手を染める。彼はわずか14歳で6万ドルの倉庫を建設、15歳でアパートを数軒所有していたという。1929年の大恐慌とともにすべてを失い、タバコと菓子の卸売から再出発、やがてピンボール台のレンタルで財をなした。ジュークボックスも含めロサンゼルスで19,000台の遊戯機具を所有しており、1938年には400,000ドルも税金で払ったという。映画の世界に入ったのは偶然だ。当時、「サウンディーズ」と呼ばれる音楽をかけながら映画を見せる機械が流行の兆しを見せていた。コジンスキー兄弟もこの機械のレンタルを考えたが、機械そのものを入手するのは彼らの得意分野だとしても、見せる映画フィルムをどうするかで悩んでいた。ある日、ハリウッドの大物をよく知る弁護士、ニール・マッカーシーと競馬場で偶然出会った。そこでマッカーシーにセシル・B・デミルを紹介してもらうのである。
この「LIFE」誌の記事は、同時代における、キング兄弟の経歴に関する最も詳しい記述かもしれない。しかし、このキング/コジンスキー兄弟は、自分たちの話をするたびにわざと何かをでっち上げ、取材されるたびに食い違った事実を記者に話す。あるときはクリーブランド出身だと言ってみたり、ピンボールをレンタルする前は株で儲けていたと誇らしげに吹聴していたりする。多くの新聞や業界紙は、彼らの禁酒法時代の酒の密造、密売の経歴については奇妙なほど避けて触れない(この点において「LIFE」誌の記事は特異である)。だいたい、彼らの名前のスペルも定まらない。モーリスは「Maurice」なのか「Morris」なのか「Morry」なのか「Maury」なのか、ハーマンは「Herman」なのか「Hyman」なのか、おそらく、兄弟がお互いを呼び合う呼び名が当時の新聞記者たち特有の綴りの作法に交じりこんで、取材されるたびに書き散らされていたのだろう1)。
兄弟の父親はジョセフ(ジョー)・コジンスキー、母親はサラ・コジンスキー。1920年代に移民が集まる町、ロサンゼルスのボイル・ハイツに移ってきた。父親は職業を「果物商人」と答えていたようだが、禁酒法時代には酒の密輸・密売が本業だったといわれている。Noir Foundationのエディ・ミューラーは、著書「Gun Crazy: The Origin of American Outlaw Cinema」のなかで「兄弟の同僚たちの多くが、キング一家は酒の密売から財を成したと証言しているが、彼ら自身は公式にはまるで自分たちの映画の脚本のようにいろんな話をでっち上げている」と述べている[2]。ロサンゼルス界隈での違法な酒の流通や、それを匂わせる事件にコジンスキーの名前が1920年代から禁酒法解禁直後まで時折登場する。「T-ボーン」・ライリーとモリス・コジンスキーが密造酒の運搬中に逮捕された[3]、フランク・コジンスキー(19歳)が「大学の学資を稼ぐために」酒の密造をしているところを逮捕された[4][5]、といった事件がロサンゼルスの地方事件欄の片隅で報道されている。これらの「コジンスキー」が後に「キング兄弟」となる人物たちと同一かどうかは定かではないが、年齢から考えておそらくそうであろう。ちなみにモーリスはボクサーとして、フランクはアメリカン・フットボールの選手として活躍していた。フランクは、ノートルダム大学に呼ばれるのではないかと噂されていたが[6]、酒の密造で逮捕されたことが原因で流れてしまったようだ。
コジンスキー兄弟の名前が、ロサンゼルス・タイムズなどを賑わせるようになるのは、1938年にアルゼンチンから「アモール・ブルホ」という競走馬を買い付けて馬主になった頃からだ[7][8]。40,000ドルもする競走馬を迷わず買えたのは、彼らの新しいビジネスが絶好調だったからである。禁酒法が1933年に廃止されたのち、兄弟はピンボール台のレンタル業に進出し、瞬く間に財を蓄えた。ピンボール台など大して利益を生むように思えないかもしれないが、実は不況の時代の手軽なギャンブルだった。禁酒法の廃止で違法な酒を高く売りつける美味しい商売を失った者たちが、今度はギャンブル性の高いピンボール台をレストラン、バー、ソーダ店、薬局などに押し込んで、街角のカモたちから莫大な金銭を巻き上げていたのである。これらのピンボール台では、点数を稼ぐと追加のゲームをタダでできる仕組みなのだが、これを店のカウンターで賞金に交換できるようにした。1936年には台そのものが賞金を吐き出すようになり、スロットマシンとなんら変わらなくなってしまう[9]。これが見逃されていたのは、ロサンゼルス市警全体が賄賂漬けだったからにほかならない。
1938年、腐敗政治で名をはせたロサンゼルス市長のフランク・L・ショウがリコールで追い出され、改革派のフレッチャー・バウロンが市長に就任する。バウロンは市の腐敗を一掃すると約束し、そのターゲットのひとつがギャンブル、特にピンボール台だった。1940年にロサンゼルス市はピンボールを違法とした。コジンスキー兄弟が「サウンディーズ」に触手を伸ばし始めたのもこの頃だ。ピンボール台の代わりの新しいビジネスを探し始めたのだろう。
この市長選を取り巻く政治のなかで、奇怪な事件が起きている。バウロン市長の広報を担当していたベン・エズラ・ケンドールという人物が収賄の容疑で逮捕されているのだ。1939年、バウロンが市長に就任した直後のことである。容疑は、ケンドールがロサンゼルス市警の警官、ハロルド・V・ウィギンスに「ピンボール台で賞金を払っている店があっても見逃せ」と現金25ドルを2回渡した、というものだ[10][11]。このとるに足らないような事件が大変な騒ぎになった。新市長がピンボール台を規制するつもりがない、新市長がギャングから寄付をもらっているという証言が次から次へと飛び出し、「市長を証言台に呼べ」「この市長も腐っているのか」「市長の背後に誰がいるのだ」といった報道合戦に火をつけたのだ。この裁判で興味深いのは、ケンドールがCAMOA(カリフォルニア遊戯機具業者組合)は白人の団体でいい奴らだが、そこにユダヤ人のコジンスキーが割り込もうとしている、だからCAMOAの機械だけ見逃してくれればいい、と言ったという証言がでたことである[12]。これが何を意味しているのかは定かではない2)。結局、数ヶ月におよぶ裁判の後、無効審理となり、なんと検察側は上告もせず、ケンドールの無罪が確定した。1945年11月10日の夜、ベン・エズラ・ケンドールはグレンデールのひとけのない路上で車に轢かれて死亡した[13][14]。
この裁判騒ぎの翌年、ヒトラーが電撃作戦でオランダとベルギーを侵攻し、ロサンゼルス市民がピンボールを規制するかしないかで口角泡を飛ばしている最中に、フランクとモーリスのコジンスキー兄弟が脱税で起訴される[14][15]3)。ここで、コジンスキー兄弟の会社「Consolidated Novelty Co.」が前述のCAMOAのメンバーだったと報道されている。問題は、彼らが脱税した金がCAMOAを通して政治家たちに賄賂として流れたのではないかという疑惑だった[16]。1934年から1937年のあいだ、会社は19,437ドル、フランク個人が17,067ドル、モリス個人が15,594ドルの脱税をしていた(これらの記事によれば、前述の「LIFE」誌に登場する額は税額ではなく、収入と思われる)。ロサンゼルス・デイリー・ニュース紙は、コジンスキー兄弟がロサンゼルス市内の「ピンボール王」のボブ・ガンズ4)と縄張り争いをしていたと報じている[17]。
ユダヤ人の3人兄弟が、ギャンブルやみかじめ料で蓄えた財産を元手にハリウッドで映画製作に乗り出した ──── 一見、ただそれだけのように映るかもしれないが、コジンスキー一家にはもう一つの側面があった。母親のサラ・コジンスキー、そして娘のローズとナタリー(ネティー)のユダヤ人社交界での存在である。彼女たちは、一族の男たちが荒稼ぎをしている裏社会の腐敗臭とは対照的に、明るい陽の当たる場所で注目を集めていた。例えば、1935年頃から40年代を通して、サラとローズはロサンゼルスのユダヤ人女性が結成した「サナトリウム女性連盟」で役職についていた。この団体は、結核の療養所の運営に関わりつつ、頻繁に会合やパーティー、チャリティイベントを開催しており、当時のロサンゼルスの社交の場のひとつだったようである(例えば[18])。また、ネティは南カリフォルニア大学でも人気の学生で、社交欄に頻繁にその名が登場する[19][20]。そして、1936年には医師のロバート・セガールと結婚、これも当時の新聞の社交欄を賑わしている[21][22]。こうして社交界とのつながりを築いていったコジンスキー家は、兄弟が競走馬のオーナーとなることで、ハリウッドのスタジオのトップやスター、ロサンゼルスの政治経済界の顔ぶれとも名を連ねるようになる。1936年のクリスマスにサンタ・アニタでおこなわれたレースでは、ボックス席におさまった有名人たちとして、ハリー・コーン、ウィリアム・ゲッツ、カール・レミル、ジャック・ワーナー、アル・ジョルソンらの名前とともにフランク・コジンスキーの名前が見える[23]。
ちなみに、ローズはリッチ家に嫁いでいた。彼女にはアーノルドとロバートという息子がいた。後にキング兄弟が製作し、ダルトン・トランボが脚本を書いた『黒い牡牛(The Brave One, 1956)』でアカデミー賞脚本賞が「ロバート・リッチ」なる人物に送られ、大騒ぎになるが、この偽名はフランクがローズの息子、つまり甥の名前を使ったものだった[23, p. 309]5)。
しかし、前述の脱税事件とロサンゼルス市内でのピンボールの違法化で一家の風向きが変わってしまう。実は脱税事件ではフランクとモーリスだけでなく、妹のネティ・セガールも起訴されている。ネティは会社の管財人として名を連ねていた。これを機会に母親のサラも、ローズもネティも新聞の社交欄から姿を消してしまう。ピンボールを生業にしていたほかの人間たちは、ガイ・マカフィーたちとラスベガスに移るか、バグジー・シーゲルたちのもとでワイヤーサービスや違法宝くじのノミ屋をやるか、といった道を進んでいった。このときが、コジンスキー一家がそのままギャンブルや違法行為を生業として沈んでゆくか、それとも看板だけでもまともなビジネスをかかげてやってゆくかの分かれ道だったのだろう。やはり、母親の一声が大きかったのではないだろうか。まともなビジネス ─── バーやレストランに合法的な遊戯機具を置く商売を続けようと考えたようだった。そして、そんな機械のひとつ、「サウンディーズ」のビジネスをもちかけるためにセシル・B・デミルのオフィスを訪れたときに、コジンスキー兄弟の人生が変わったのは間違いない。
キング兄弟
コジンスキー兄弟は前述の「LIFE」誌の記事で、「サウンディーズ」のアイディアについて話をするためにセシル・B・デミルに会いに行ったときの様子を語っている。デミルに会うためには長い間待たされる。数週間も。兄弟は、まずそれが気に入らなかった。会って話してみたら、デミルのアイディアも気に入らなかった。デミルは「サウンディーズ」にサリー・ランドを起用したいと言う。さらに空中ブランコを見せるのもいいと言い始めた。モーリスは「デートの最中に誰がバブル・ダンスやアクロバットを見たがるんだ、ビング・クロスビーを聞いてリラックスしたいだろ、普通」と極めて正論を言っている。このときの経験が彼らの映画ビジネスへの参入の動機のひとつだったのは間違いないだろう。その後、事あるごとにデミルの話を持ち出して、デミルのセンスの悪さをこき下ろしている[24] [25] [26]。
この「サウンディーズ(コジンスキー兄弟は自分たちの機械をトーキートーンと呼んでいたようだ)」をデミルと組んで開発する話は、ハリウッドの業界紙に1940年の10月初めに公表された[27][28]。しかし、また強力な後ろ盾を持った競争相手が現れる。フランクリン・D・ルーズベルト大統領の長男、ジェームズ・ルーズベルトが「サウンディーズ」の製作配給を新会社グローブ・プロダクションズで行うと大々的に発表したのだ。業界紙の片隅に100語程度の記事が載ったに過ぎないコジンスキー兄弟の発表の2週間後に、全米の地方紙のエンターテインメント欄を3列ぶち抜き、ミニスカートのモデルがサウンディーズの横で微笑んでいる写真付きで「ジミー・ルーズベルト」が占領した[29]。デミルとも喧嘩別れしたコジンスキー兄弟は、サウンディーズから手を引かざるを得なくなった。
コジンスキー兄弟は、ここから映画製作の道を進むことになる。ハリウッドの様子を覗いてみて、面白いと思ったのかもしれない。セシル・B・デミルに侮辱的な態度をとられて、闘争心を燃やしたのかもしれない。最初に取り組んだ映画は『Paper Bullets(1941)』。原作、脚本のマーティン・ムーニーは、ニューヨーク・アメリカン紙の元新聞記者で、1935年に「Crime Incorporated」というギャングの内幕の暴露本を出版してセンセーションを巻き起こした。当時のニューヨークの警察、検事らが彼を追及し情報源を明らかにするように求めたが、ムーニーは「新聞記者には情報源を秘匿する権利がある」と主張して、法廷でも検事や判事と激しく対立した(実際、ムーニーは30日間服役している)[30]。ジェームズ・ギャグニーの映画になりそうなこの男に目をつけたハリウッドは、すぐに呼び寄せて犯罪と腐敗のストーリーや脚本を書かせた。ムーニーは、最初の1年で『特高警察(Special Agent, 1935)』、『特報(Exclusive Story, 1936)』、『弾丸か投票か!(Bullets or Ballots, 1936)』、『行方不明の女達(Missing Girls, 1936)』と立て続けにクレジットに名を連ねている。このいささかワークホリック気味の元新聞記者から安く脚本を仕入れたコジンスキー兄弟は「K-B Productions」という会社を設立し、プロデューサーズ・リリーシング・コーポレーションに配給を任せることにした。彼らはタリスマン・スタジオ(ポヴァティ・ロウのティファニー=スタール・スタジオだった場所がレンタル・スタジオになっていた)を借り[31] [32]、名前の知れた人物であれば「人気絶頂だろうが、落ち目だろうが関係なく」雇った。監督はフィル・ローゼン、ジャック・ラ・ルーが主演。当時無名のアラン・ラッドが脇役で出演していることで有名である。『Paper Bullets』は20,000ドル程度の予算で、400,000ドルの興行収入があったと言われる。二作目の『I Killed That Man(1941)』もフィル・ローゼン監督で、モノグラム・ピクチャーズと契約、20,000ドルの製作費だった。このときから姓を「キング」に変え、プロダクション名も「キング・ブラザーズ・プロダクション」とした。キング兄弟は映画ビジネスをまったく知らない。だから最初は撮影にずっとはりついて、カメラマン、スタッフ、誰でもかわまず質問をしていたという[23, p. 306]。モノグラムのスティーブ・ブロイディは彼らの面倒を見るのは大変だったといい、「電話のかけ方も知らないし、何かあると、まずそいつの顔を殴りに行くような奴らだった」と嘆いている。
この頃の製作費の内訳がロサンゼルス・タイムズに掲載されている[33]。
これにその他諸々の雑費が加わって、20,000ドルになった。1940年代を通して、キング兄弟の「最低の製作費で常に売れる映画を作る」自慢は新聞や雑誌に取り上げられ続ける。
彼らは日々の運営で起きる問題をすべて母親のサラ・キング(コジンスキー)に相談して判断を仰いでいた。おそらく、ピンボールの胴元をやっていたころから、この母親を中心としたビジネス運営だったのではないかと思われる。映画製作という、人目に晒されるビジネスになったために目立つようになったのだろう。1968年にロサンゼルス・タイムズが、キング一家を取材したとき、そのタイトルは「キングの女王が映画の一族を支配する」だった[34]。その記事によれば、どの脚本を採用するか、誰を監督にし、誰を主役にするか、すべてをサラが決め、そして一度も映画が赤字になったことはないという。ロケーション撮影にも同行し、撮影中も横で監視し、公開の日には自分でチケットを買って見に行く。彼女のモットーは「世界中が見ることのできる映画」「子供に見せたい映画」だ。もちろん『黒い牡牛』が自慢なのだ。だが、よいビジネス・チャンスを逃したこともある。ハーマン(ハイミー)が「『日曜はダメよ』は断っちゃったよね」と言うと、サラは「なんだい、稼がなかった金のことを自慢したいのかい?」とやり返している。
三人兄弟のうち、モーリスが「アイディアマン」で火付け役だという。ボクサーだった彼は、売れるストーリーを見る目があり、プロモーターとしても優れていた。フランクは、母親に「太っちょ」と呼ばれる巨漢で、モーリスの暴走にブレーキをかける役割だった。冷静でビジネスの才覚がある。ハーマン(ハイミー)は末っ子で怠け者。ただし人懐っこい。地方に行ってどんな映画が受けて、どんな映画が敬遠されるかを調査する役を仰せつかっている[1]。
実際、コジンスキー/キング一家は映画ビジネスに乗り込んでから、出自を乗り越えたようにも見える。一家は1920年代からずっとボイル・ハイツのニュー・ジャージー・ストリート、1949番地に住んできた。ボイル・ハイツは、ロサンゼルスでも移民の集まるエリアである。特に日本人移民が多く、ユダヤ系も東部から移り住んできた者たちがここに居を構えていた。コジンスキー一家は、ピンボールのビジネスで大儲けをしていたころでも、ここから出なかった。だが、映画のビジネスに参入して毎年ヒット作を出すようになると、キング一家はビバリー・ヒルズに引っ越したのだ。10部屋もあり、3人の使用人と3台の車がある。第二作から関わりのあるモノグラム・ピクチャーズも、その株の4分の1を保有するまでになる[2, p. 32]。
だが、もちろん彼らはMGMでもなければ、シェンク一族でもない。ハリウッドの大手スタジオの連中は、キング兄弟を見下していたし、兄弟もそれはわかっていた。『拳銃魔』の製作に入ったとき、モーリスが自分たちのオフィスに新聞記者を呼んで、怒りをぶちまけたことがある。グレゴリー・ペックに「150,000ドルと興行収入の一部」でバートの役を提案したが、「独立プロデューサーは嫌だ」と断られ、ダナ・アンドリュースは「銃を撃つ役はやりたくない」「興行収入の半分くれるなら考えてもいい」と侮辱的な回答をよこした。「どうせ、連中はプールサイドに寝そべって、『いま、どこで仕事してる?』って聞かれたときに『キング兄弟だ』って答えるのが嫌なんだろ」とモーリスは噛み付いている[35]。
彼らの映画で、犯罪者やギャングの世界を中心にした題材が多いのは、もちろん彼らがそういった裏社会をよく知っていたからだというのはあるだろう。フランク兄弟の出自を匂わせる話としてよく引用されるものに、ギャング映画の撮影中の出来事がある。ギャングのボスとの会話のシーンを撮影しているときに、横で見ていたフランクが「違うな、よく見てて」と実際に演技を付けたという。そのときにフランクは「アル・カポネに会って話したことがあるんだ」と言ったと言われる。アル・カポネは本当かどうかわからないが、ロサンゼルスをまとめていたジャック・ドラグナやユダヤ系のバグジー・シーゲル、ミッキー・コーエンとは会ったことがあってもおかしくない。シーゲルが西海岸で競馬のワイヤー・オペレーションを始めた1937年頃に、フランクとモーリスが競走馬を買って厩舎を所有したのは偶然ではないかもしれない。
その彼らが、『我等の生涯の最良の年(The Best Years of Our Lives, 1946)』のマッキンレー・カンターと『恋愛手帖』や『東京上空三十秒』のダルトン・トランボをしたがえるのである。
“Dot any duns?”
マッキンレー・カンターといえば、映画ファンには『我等の生涯の最良の年』の原作となった「Glory for Me」の作者であり、『拳銃魔』の原作と脚本をしたためた人物だという印象があるだろう。だが、それよりももっと有名なセリフの<原作者>であることは案外知られていない。『地獄の黙示録(Apocalypse Now, 1979)』のキルゴア中佐のこのセリフだ。
Blow them into Stone Age!
(ナパームで焼き尽くして)石器時代にぶち戻してやれ!
キルゴア中佐
これは第二次世界大戦中に日本の本土空襲を指揮したカーチス・ルメイが1965年に著した自叙伝にでてくる言葉からきている。ルメイは、当時迷走し始めていたベトナム戦争の戦況についてアメリカ政府と軍の首脳を痛烈に批判していたが、この自叙伝ではこう書かれていた。
My Solution to the problem would be to tell them frankly that they’ve got to draw in their horns or we’re going to bomb them back to Stone Age.
私の解決策はこうだ。北ベトナム政府に、はっきりと言うのだ。今すぐ態度を改めて攻撃をやめろ、さもなければ爆撃しまくって石器時代に戻してやる、と。
Mission with LeMay[36, p. 565]
この自伝出版後、ルメイは批判にさらされる。「タカ派のルメイが、『アメリカは北ベトナムを爆撃しまくって石器時代に戻すべきだ(we should bomb them back to Stone Age)』と言った」という話になってしまう。インタビューでそのことを聞かれる度に、ルメイは「私はそんなことを言った覚えはない」と弁明するはめになる。それもそうだろう。ルメイの自叙伝は、マッキンレー・カンターとの共著となっているが、実質的にはカンターがゴーストライターだった。この言葉はカンターによるものだと、孫のトム・シュローダーは祖父の伝記の中で書いている[37]。
カンターのバイオグラフィーを見ると、『我等の生涯の最良の年』に加えて、南北戦争を舞台にした歴史小説を数多く残しているのがわかる。なんとなく、「石器時代に戻せ」などという表現とは相容れない風格を感じてしまうが、カンターは一度火がついてしまうと罵詈雑言と下品極まりない中傷が際限なく湧き出てきてしまう人物だった。そして筋金入りの反共主義者だった。彼は書斎に「FUCK COMMUNISM」というスローガンを赤字で書いた額を飾っていた。
つまり、『拳銃魔』の脚本は、筋金入りの反共主義者の書いたものを、刑務所に放り込まれてもひるまない共産主義者が仕上げたのである。
『拳銃魔』の原作は、1940年2月3日号の「サタデー・イブニング・ポスト」に掲載された「Gun Crazy」という短編である6)。カンターは文筆で生計を立てようと1920年代から躍起になって、ありとあらゆる雑誌に原稿を送っていた。大部分はボツになっていたが、それでも「リアル・ディテクティブ・ストーリーズ」のようなパルプ雑誌に採用されることもあった。1933年頃から「コリアーズ」のようなメインストリームの雑誌にも短編が掲載されるようになり、パルプを<卒業>する。短編「Gun Crazy」はタイトルこそハードボイルド・パルプ雑誌のギャングものを思わせる香りがあるが、掲載されたのは保守的な「サタデー・イブニング・ポスト」であり、アメリカの片田舎を背景に、銃にとりつかれた男の一生を追う、保守的な読み物である。
この短編では、ネルソン(ネリー)・テア(映画ではバート)にだけ焦点が当てられる。女性のパートナー、アントワネット(トニ)・マクレディ(映画ではローリー)は、最初ネルソンと組んで連続強盗をしていたが、逮捕されて収監された後は物語から消えてしまう。つまり、あくまで<銃に執着しているが生命を奪うことができない男>の話であり、それが幼馴染の一人のデイブの視点から語られている。一方で、映画のプロットの鍵になる部分はすでにこの短編にもあらわれている。幼馴染のデイブとクライドとの出会い、ハンティングに行ってネリーがウサギを殺すことができなかった話、ネリーがカーニバルで射撃の芸当を見てアントワネットに惹かれ、その後二人で犯罪を重ねる経緯、そしてネリーが法の手から逃亡を続けた末に故郷に現れ、幼馴染の2人によって追い詰められていくラスト、は映画『拳銃魔』の設計図そのものだ。映画にはないが最も印象的な部分は、導入部である。デイブがネリーと初めて出会うのは、ネリーの一家が近所に引っ越してきたときだ。ネリーはデイブに遊ぼうと声をかけてくる。「銃を持っているか(Have you got any guns?)」と尋ねてくるのだが、それがデイブには「Dot any duns?」と聞こえるのだ。5歳か6歳になろうというのに、まだ赤ちゃん言葉が抜けないネリーは、それでもおもちゃの銃に執着し、一緒に遊ぶデイブを泣かせてしまう。ネリーは「この銃は本物(real)じゃないのに」と言うが、それも「weal」としか聞こえない。「本物」という言葉もまともに発音できないのに、「銃が本物か否か」という区別には敏感に執着する子供の存在というのは、テーブルの染みのように銃器が生活の組織に浸透しているアメリカの物語の主人公としてふさわしいかもしれない。
『犯罪王デリンジャー』の成功で景気が良くなっていたキング兄弟は、次のアイディアを探していてこの短編に出会う。まず、「Gun Crazy」、このタイトルに惹かれた。実際に読んでみると、彼らのビジネスとも馴染みそうな内容だ。しかも、作者はちょうどヒット中の『我等の生涯の最良の年』のマッキンリー・カンター。エージェントと交渉が始まった。当初、エージェントは「こんな奴らと付き合わないほうがいい」とカンターに忠告していたが、キング兄弟は原作と脚本で15,000ドル、プラス副プロデューサー権、さらに興行収入からのパーセント収入を約束した。1946年10月26日にカンターとキング・ブラザーズ・プロダクションは契約を交わした[2, p. 37]。
この頃のカンターとのやり取りで、フランクとモーリスは「無名の俳優でもよい映画が作れる」と繰り返し主張している。金のかかる大スターがキャストにいない映画の例として『犯罪王デリンジャー』と『殺人者(The Killers, 1946)』を挙げている。そのキング兄弟が、ネリーの役にロバート・ミッチャム(100,000ドル)を検討していると伝えると、今度はカンターが「RKOはロバート・ミッチャムにそんな価値があると思っているのかもしれないが、将来的にどうなんだろう。『拳銃魔』に250,000ドルは多すぎるような気がする、もっと安上がりにしたほうがいい」と返している[2, p. 37]。
カンターがキング兄弟と組むことになった背景には、彼のハリウッドの大手スタジオやプロデューサーへの不信感がある。『我等の生涯の最良の年』をめぐるゴールドウィンとの確執、MGMやユニバーサルへの失望が重なり、映画製作における自らの創造的自由を求めていたところへ、キング兄弟がほぼ白紙委任状のようなオファーを出してきた。少なくともカンターはそうとらえたようだった。セシル・B・デミルへの嫌悪においてもキング兄弟と波長が合った。カンターは、かつてデミルの新作のために、旧約聖書のエステルの物語をもとに脚本を手掛けていたことがある。デミルはクセルクセス王が処女を集めるシーンで象にまたがった中国人女性を登場させると言い始めた。カンターが、このクセルクセスの町には中国人はいないと指摘すると、「かまわんさ」とデミルは答えた[38]。キング兄弟にも、カンターにも、なぜこの頓珍漢なセンスの男がハリウッドで最も尊敬されている監督の一人なのか、さっぱり見当がつかなかったに違いない。
カンター稿、ブリーン・オフィス
製作が発表されてからは、キング兄弟特有の宣伝戦略が展開される。本当の計画なのか、それともただ単にキング兄弟の名前と映画のタイトルを新聞に載せたいだけなのか、真意のつかめない記事が定期的に新聞や業界紙に掲載される。翌年1947年の1月には、マッキンレー・カンター自身が監督するという話も持ち上がっている。ここでは主演女優はジョーン・ロリングと発表された[39]。『拳銃魔』のために別会社をおこして、ジョージ・ラフトを主演にする話[40]、アイオワで撮影する話が持ち上がり、アイオワ州知事のロバート・A・ブルーが出演するという話[41]、アイオワのウェブスター・シティ(マッキンレー・カンターの故郷)の全市民がエキストラとして参加する話[42]、と話題に事欠かない。これは、カンターの脚本が完成するまでの時間稼ぎだったと思われる。初稿が出来上がったのが1947年の3月の末だった[2, p. 41]。とりあえず、形として出来上がったものの、200ページ近くもある代物で、「業界の基準でいえば、ひどい出来(エディ・ミューラー)」だった。最大の問題は前半の部分で、少年時代のネリーに関わる部分だ。彼の父親は札付きのならず者、かつて人を殺めた過去のために復讐で殺されている。ネリーは継父に暴力を振るわれる毎日を送り、その暗澹の中で銃への執着を示すようになる。銃を盗んで少年院に送られ、その後従軍、故郷に戻ってくる。ここまでで全体の3分の1を占めていた。アクションが始まるまでがあまりに締まりのない展開なのだ。
しかし、ネリーがトニ(アントワネット)と出会ってから犯罪の底なしの陥穽にはまっていく急激な転回は、このカンターの初稿で既に決定的になっていた。エディ・ミューラーは、カンターの脚本のなかで映画と全く同じ部分として以下を挙げている[2, p. 45]。
初稿を読んだキング兄弟は、すぐにカンターに「今まで見てきた脚本の初稿で最も優れている」と電報を打ち、カリフォルニアに招待する。キング兄弟の目論見は、PCAとの交渉のテーブルにカンターを呼んで、ジョセフ・ブリーンをひるませることだった。『犯罪王デリンジャー』の際にはPCAと苦々しい交渉をしなければならなかったが、それは自分たちの出自にあるとキング兄弟は感じていた。さらにハリウッドでは「キング兄弟がPCAに賄賂を渡している」というデマが流れていたようだ。体面に敏感なPCAが噂を否定しようと躍起になり、キング兄弟の作品をとことん引き裂くだろう、そうすれば製作が頓挫するだろう、という悪意が漂っているのだ。
PCAは、予想通り『拳銃魔』の初稿を完膚なきまでに否定した。不倫、非嫡出、不義のセックス、強盗、誘拐、警察官を射殺、とプロダクション・コードに準拠していない部分を列挙した。そして、物語が犯罪者に同情的であるとして、明確な道徳の代弁者を配置して、ネリーの銃への執着と犯罪に満ちた人生が間違っていると宣言しなければならない、とまで付け加えた。
結局、カンターは、ネリーの父親と母親は結婚していること、ネリーとトニも結婚すること、ラストでネリーとトニは赤ちゃんを人質にとらないこと、2回めの強盗を銀行ではなく電力会社にすることなどに合意した。その後もPCAは主に前半を書き直すようにしつこく指示してきた。これはネリーの生い立ちを重要視しているカンターにとって極めて不愉快だったに違いない。
オリジナルのカンター稿には、少年時代のネリーが大人に銃を向けて脅すシーンが2回登場する。どちらも理不尽な折檻に対する反抗、あるいは抑止力として、少年のネリーが銃を使用している。一つのシーンでは、彼のことを鞭打とうとするミス・ブレスナー先生に銃を向けたことが示唆されている。もう一つのシーンでは、折檻するためにネリーを小屋に連れて行こうとする継父に向けて、.22ライフルを向け、継父の持つランタンのグローブを撃ち抜いた。これらのシーンはPCAからの強硬な批判を受けて削除された[43, p. 136]。
(この原稿では)これらの二つの行為が正当で当然のごとく描かれている。この物語が標榜する「銃を持っていれば、みんな怖がって誰にも邪魔されない」という、危険で反社会的な哲学がそこには表れている。それだけではない。物語の前半では、この学校の教師と継父が同情に値しない悪者として描かれていて、このことによって、ネリーの行為が正当化されている。こういった正当化は、観客に少年への同情を抱かせることにしかならないと私達は確信している。
PCAのメモ
カンターの脚本修正が遅々として進まない一方で、キング兄弟は前述のように撮影をアイオワで行うことを発表する。1947年の6月にはなんとフランクとモーリスのキング兄弟とカンターはアイオワにロケハンに出かけ、大々的に宣伝活動を行うのである。
だが、この頃からカンターとキング兄弟のあいだに亀裂が入り始める。
キング兄弟は、この季節にアイオワを襲った天候不順(雪、竜巻、洪水)を理由に撮影の延期を発表する[44]。カンターはすでにアイオワに引っ越していたが、キング兄弟はカンターと話し合いをすることもなく『拳銃魔』を棚上げしてしまう。やはり問題は脚本、前半のネリーの少年時代だった。カンターはこのアメリカの原風景を舞台にした成長譚にこだわり、キング兄弟はそれがこの映画で目指すべきものではないとわかっていた。
キング兄弟は、カンターに得意分野を依頼することにした。ちょうどジェイ・モナハン作の「The Last of the Bad Men」(のちに『群盗の宿(Bad Men of Tombstone, 1949)』になる)の映画化を考えていたところだった。この西部のフロンティアを舞台にした物語ならカンターも得意だろうと考え、脚本化をカンターに依頼した。しかし、それはあてが外れた。
オープニングがまだるっこく、演劇的になにも寄与していない……シークエンスが次に流れていかない……混乱している箇所が多く見られる……君の実力とはとても思えない……控えめに言っても失望したと言わざるをない。マック、この手紙を書くのは本当につらいことだったが、君自身、率直でずばずばと言う人だから、私達も正直な意見を言わせてもらった。
フランク・キング、モーリス・キング[2, p. 60]
カンターの返信は、<率直>を通り越していた。
君もモーリーも物語というものに対して洞察力があるとはとても思えない。君たちの育ちや経験から限界があるとは思うが、それでも子供時代の困難を乗り越えて成し遂げてきたことには尊敬の念に耐えない。しかし、君たちは、元来の視野の狭い態度を頑なにとる。まるで、爺さんも父ちゃんも読み書きできなかったから、子供にも読み書きを習わせることはない!と言っているフロリダのホワイト・トラッシュみたいだね。
マッキンレー・カンター[2, p. 60]
フランクとモーリスが「スーパー・チーフ号」に飛び乗って、アイオワにいるカンターの顔をぶちのめしに行かなかったのが不思議なくらいだ。実は、キング兄弟は、フィリップ・ヨーダンやジョセフ・H・ルイスが面白おかしく描写したよりも、はるかにしたたかで、辛抱強い。
だから、「拳銃魔」の脚本をダルトン・トランボに託したのである。
むちゃくちゃにした奴:ダルトン・トランボ
ダルトン・トランボ、ハリウッド・テンとブラックリストの経緯については、ここでは述べない。
キング兄弟が、なぜハリウッド・テンのうちのひとり、ダルトン・トランボに接近したのだろうか。さまざまな記述がされているが、フランク・キング自身が述べた言葉を引用しよう。1959年1月に「ロバート・リッチ」の正体が明かされたときに、フランク・キングはリュー・アーウィンのインタビューに答えている[23, p. 362]。キングは、自分たちの製作会社が株式会社であり、株主に対して「最高の脚本を手に入れる絶対的な義務がある」と述べている。作家の政治的信条は関係ない。「私は、作家の政治的信条にお金を払っているわけではない、あくまで作家としての才能に払っているんだ」と断言し、トランボが非米活動委員会の質問に答えることを拒否したことを知っているかと尋ねられると「もちろん、トランボが議会に対する侮辱罪で有罪になり、1年間刑務所に入っていたことも知っているが、私からすれば、それでもうその件はカタがついたと思っている」と答えている。さらに「トランボに共産主義者かどうか尋ねたことはあるか」と聞かれて、「もちろんない、彼の政治的信条や宗教、肌の色など興味ない、興味あるのは彼の作品だけだ」、「『黒い牡牛』のどこが共産主義的なんだ?」といささかの隙も見せずに跳ね返している。
1947年10月の非米活動委員会の公聴会を見ていたキング兄弟は、その様子を「有能な脚本家が失業していくさま」と捉えていた。フランク・キングはトランボとハリウッドのレストランで会い、そこでマッキンレー・カンターの脚本をそっとトランボの膝の上に載せた。報酬は1年半で3,750ドル(トランボはかつてMGMと週3,000ドルの契約を結んでいた)[23, p. 375]。まったく収入源を絶たれていたトランボは、ずっとその安い給料に不満を露わにしながらも、同時に仕事をまわしてくれたことに感謝していた。
マッキンレー・カンターとダルトン・トランボは、反共主義者と共産主義者だという点以外に三点違いがある。ひとつは、トランボはカンターと違って、脚本を依頼してきた人間が満足するまで辛抱強く書き直し続ける点、もうひとつは、カンターはPCAに従うか反抗するかしか手立てを持たないが、トランボはPCAの言い分をかいくぐって道徳的な教条を骨抜きにできる点、そして、カンターは自分の父親像が重なった西部のならず者の<神話>を背負っているが、トランボにとって西部は<様式>に過ぎない、という点である。
まず、トランボは、前半に大きくのしかかっていた少年時代のストーリーを数ページにまとめてしまう。フラッシュバックを使って鍵となる事件だけを抽出し、あっという間にカーニバルのシーンに進んでしまう。主人公が生まれる前のならず者たちの闘いや、少年時代の継父の暴力、感化院での出来事は削られた。カンターにとってこのプロローグは、自分の父親ジョン・カンターの亡霊との対話であり、そこに彼は逃げようとしても逃げられないアメリカの原型をみていた。ジョン・カンターの亡霊は、マッキンレーの息子[45]、そして孫[37]にも取り憑くくらい強烈な存在だったようだ。だが、トランボにとって、西部は「アニー・オークリー」「ローラ・ブリオン」「ベル・スター」「ブラック・バート」というキャラクターたちの世界であり、それがアニー・ローリー・スターとバート・テイトという名前に埋め込まれて再生される[2, p. 65]。
PCAは「観客が犯罪者に同情するようなストーリーはダメだ」と釘をさしていた。トランボは、あの有名な「ローリーとバートが二台の車で別々に逃亡しようとするが、磁石のように引きよせられてしまう」シーンを作り出す。観客がこの二人に同情するかどうかはわからないが、「二人の社会病質者が恋に落ちる物語(エディ・ミューラー)」に変貌させたのだ。そして、トランボは最後の最後まで書き直しを続けた。ローリーの役にペギー・カミンズが決まった後、ローリーのイギリス訛りについてセリフを追加するなど、細かいレタッチを忘れていない。
キング兄弟は、この改定稿をマッキンレー・カンターに送る。もちろん、誰が手を入れたかは伏せたのだが、カンターはなぜかスティーブ・フィッシャーだと勘違いしたようだ。
クレジットは「脚本:マッキンレー・カンター、むちゃくちゃにした奴:スティーブ・フィッシャー(だか誰だか知らないがそいつの名前)」としてもらえると嬉しいね
マッキンレー・カンター[2, p. 73]
脚本のクレジットは、ダルトン・トランボと同じエージェントを使っていたミラード・カウフマンの名前が使われる。
ミラード・カウフマンは、ダルトン・トランボとは一度しか会ったことがないという。しかし、その後『拳銃魔』について話す機会があると、自分は<フロント>に過ぎず、本当はトランボが書いたのだと常に訂正してきた。「しかし、誰も興味を持たなかったんだ」とカウフマンは言う[46]。全米脚本家組合がようやくクレジットの訂正をしたのは1992年のことである。
監督の自慢話
マッキンレー・カンターと実質的に袂を分かったあと、キング兄弟が監督として発表していたのはゴードン・ワイルズだった。だが、本当にゴードン・ワイルズを監督として起用するつもりだったのかどうかは不明だ。ワイルズが監督した『ザ・ギャングスター(The Gangster, 1947)』も、キング兄弟はセットやロケ撮影のコストをカットするために「コニー・アイランドとニューヨークのエルをダンボールで作れる美術監督に監督させた」などと言っている[2, p. 57]。いったい、何が本心なのかさっぱりわからないが、『拳銃魔』ではワイルズを美術監督として起用しているので、最初からそのつもりだったのかもしれない。『拳銃魔』に関しては、1948年はほぼ何も進展なく過ぎてゆき、キング・ブラザーズ・プロダクションは『The Dude Goes West (1948)』や『群盗の宿(1949)』の製作にかかりきりだった。
ジョセフ・H・ルイスが『拳銃魔』の監督として発表されたのは、1949年3月21日のことである[47]。ルイスは、『秘密調査員(The Undercover Man, 1949)』を最後にコロンビア・ピクチャーズを離れたばかりだった。
この段階で、主演の二人がまだ決まっていなかった。4月11日にキング兄弟はヴェロニカ・レイクをローリー役に起用しようと交渉していた[48]。しかし、その直後に、ペギー・カミンズ、ジョン・ドール、ベリー・クルーガーの起用が発表されている[49][50]。ペギー・カミンズは1946年に20世紀フォックスの『永遠のアンバー(Forever Amber, 1947)』の主役に抜擢されてイギリスから呼び寄せられたが、製作開始後に「役に不適」という理由でアンバー役を降ろされる。それ以来、ハリウッドではカミンズといえば「アンバーを降ろされた哀れな女優」、そして『永遠のアンバー』が公開された後は「大失敗作からからがら逃れた幸運な女優」と呼ばれていた。その<ベビーフェイスの>カミンズが、<銃を振り回す悪女>を演じるというニュースは当時のニュースに繰り返しとりあげられた。カミンズとドールが呪われた二人に起用されたことは、この映画にとって最も重要な切り札となる。ドールの男らしさの薄さと、カミンズの幼い容貌が、凶暴な行動にもかかわらず、観客を魅了するのは間違いないからだ。
ルイスは後年、ピーター・ボグダノヴィッチへのインタビュー[51]を始めとする多くの機会で、いかに自分が『拳銃魔』を<創造>したかを誇らしげに語ってきた。『拳銃魔』についての書籍をしたためたジム・キッツエスもエディ・ミューラーも全米各地に散らばる『拳銃魔』脚本の各稿を確認し7)、カンター稿、トランボ稿、そして決定稿から、それぞれの寄与を明確にしている。ボグダノヴィッチのインタビューで「カンターの375ページの脚本をもって数週間カンヅメになって130ページにした」「ミラード・カウフマンと仕上げた」「あの銀行強盗のシーンは17ページもあって、銀行に乗り込んで、みんなを床に這いつくばらせる、といった感じの段取りで、使い物にならないと思った」といった話は真実ではない。ルイスの手に渡ったのは、すでに各ショットにブレイクダウンされた116ページのトランボ稿である。カウフマンはこの作品と一切かかわっていない。ハンプトン銀行強盗のシーンは、カンター稿の段階ですでにカメラは銀行の中には入らず、トニ/ローリーと警官のやり取りをとらえることになっていた。
撮影は1949年5月4日からスタートし、30日間のスケジュールだった。予算は450,000ドル[52](エディ・ミューラーによれば300,000ドル)。キング兄弟の主張する過去作品の製作費(『サスペンス(Suspence!, 1946)』が857,335ドル、『The Gangster (1947)』が840,000ドル、『The Dude Goes West (1948)』が600,000ドル)[1]と比べてもこれは予算が低く、当時の他の<低予算>作品の製作費(『国境事件(Border Incident, 1949)』741,000ドル、『魅せられて(Caught, 1949)』1,574,422ドル、『深夜復讐便(Theive’s Highway, 1949)』1,300,000ドル)と比べると、明らかに見劣りしてしまう。
ラッセル・ハーラン(1903 – 1974)は、『ハタリ!(Hatari!, 1962)』、『アラバマ物語(To Kill A Mockingbird, 1962)』などの作品でアカデミー賞にノミネートされることになる重要な撮影監督だ。ハワード・ホークス監督のお気に入りとも言われ、『赤い河(Red River, 1948)』や『リオ・ブラボー(Rio Bravo, 1959)』など7作でクレジットされている。この頃、キング・ブラザーズ・プロダクションの作品をいくつか担当している。
撮影は、おおよそ時系列にそっておこなわれたという。バートの少年時代を演じたのは、ラス・タンブリン。この後、『 掠奪された七人の花嫁(Seven Brides for Seven Brothers, 1954)』や『ウエスト・サイド物語(West Side Story, 1961)』などのミュージカル、さらに『ツイン・ピークス(Twin Peaks)』のローレンス・ジャコビー役で有名だ。マウンテン・ライオンを撃てないバートを演じる際、タンブリンは銃をうまく構えることができずに苦労していたが、ルイスの指導のおかげで乗り越えられたという。タンブリンをMGMのドア・シャリーに紹介したのもルイスだという[53]。
銃の扱いに慣れていないという点では、ペギー・カミンズもジョン・ドールも同じだった。カミンズは毎日射撃場で練習し、ドールに至っては撮影期間中はどこへ行くにも拳銃をぶら下げていたという[54]。
ロケーション撮影は、ロサンゼルス市内、そして周辺のリシーダ、モントローズなどでおこなわれた。リシーダでは、レンジャーズ&グロウワーズ銀行(Rangers & Growers Bank)を襲うシーンが撮影されている。
モントローズでは、ハンプトン銀行の強盗シーンが撮影される。これは車内にカメラを据えたロングテイク(長回し)でおこなわれた。前述したように、カンター稿ですでにカメラは銀行のなかに入らない設定になっていた。トニ(ローリー)が偶然現れた警官をなんとかあしらおうとすることで緊張を高める仕掛けも、すでにそこにあった8)。ルイスの演出は、それをワンカットの長回しにし、犯行の緊張と逃亡の加速と高揚を一気に見せた。ルイスによれば、モントローズでロケハンをしているときに、ワンカットの長回しで撮影するアイディアが浮かび、エキストラを使い、車の後部座席にカメラを据えて16mmのテストフィルムを撮影した。このテストフィルムでキング兄弟と製作主任を説得したのだという。
キャデラックのストレッチ・リムジン9)の後部座席を取り払って、グリースを塗った板を使った即席の<ドリー>にカメラを設置した。車内にバッテリー駆動の照明が2台、ボタン式のマイクロフォンが仕掛けられ、リムジンの屋根にはブームマイクが設置された。監督、撮影監督、カメラオペレーター、スクリプト係、グリップ2人、録音係が車内と屋根に一人ずつの計8人と、ドールとカミンズがこのリムジンに乗っていた[51][55][2, p. 112]。リハーサルもテストもなしで本番の撮影に入り、カミンズがこの巨大な車を運転して、二人のセリフはアドリブ、駐車スペースも銀行の前が偶然に空いたのを見て駐車したという10)。当時の新聞に、元銀行強盗のアル・ジェニングス(82)がこの撮影の様子を見ていた、という報道がある。ジェニングスは、ジョセフ・H・ルイスのところへ行って「間違いだらけだ」と言った。ルイスが「どこがいけないんだ」と聞くと、「まず、あのブロンド娘はいちゃいけない」と答えたという[56]。この男は、1890年代にオクラホマで名を馳せた強盗団「アル・ジェニングス・ギャング」の首領、アル・ジェニングスだ。実は彼は無声映画時代にハリウッドで俳優になって数多くの映画に出演、その後犯罪映画のアドバイザーにもなっており、キング兄弟が呼んだのものだと思われる11)。
食肉工場での給与強盗のシーンは、ロサンゼルスのオリンピック通りにあるアーマー食肉工場でロケーション撮影された(設定はニューメキシコのアルバカーキ)。ルイスは、肉はその頃まだ配給制で、宝石店の代わりに食肉工場にしたのは自分のアイディアだと言っているが、これも記憶違いだろう。エディ・ミューラーによれば、食肉工場での強盗シーンは、カンター稿から存在しており、トランボはそのシーンの良さを理解していたのか、修正していないという。食肉の配給制も1945年11月には終わっている[57]。このアーマー食肉工場の付近には背の高いヤシの木が植えられていたようだが(1938年当時のアーマー食肉工場の写真[Los Angeles Public Library Photo Collection])、これが映り込まないように苦慮している。ルイスはこのシーンでも即興性を大切にした。逃走中にローリーが盗んだ金の入った鞄を落としてしまう。あれはドアにぶつかって本当に落としてしまったのだが、ルイスはそれをそのまま使った[2, p. 125]。
バートとローリーの最後のデートは、サンタモニカのパシフィック・オーシャン・パークでのロケーション撮影の予定だったが、予算の関係でプロセスショットになった。
ラストの逃避行はロサンゼルスのボールドウィン・ヒルズでロケーション撮影され、湿地での撃ち合いはスタジオで撮影された。この最後の二人の死をどう扱うか、ルイスは最後まで迷っていたようである。撮影用の脚本ではもともとバートがローリーを撃つエンディングになっていたが、手書きで「ローリーがバートを撃つエンディング」とあわせて、「両方のエンディングを撮影する」というメモ書きが書き込まれている[2, p. 142]。
キング兄弟、とくにフランク・キングは撮影のあいだは毎日現場にいた。しかし、彼らは一切口を出さず、監督に任せきりだったという。これは他の作品でも同じで、キング兄弟のもとで『巨象マヤ(Maya, 1966)』を監督したジョン・ベリーは、モーリスのことは別の理由でとても我慢ができなかったが、フランクは監督に信頼をおいてくれている点で素晴らしかったと語っている[58, p. 84]
キプリングに敬意を表して
モーリス・キングは、マッキンレー・カンターにクレジットについて問い合わせた。カンターはミラード・カウフマンが脚本にクレジットされているのを見て「KAUFMAN KRAZY」がいい、なんなら「KING BROTHERS KRAZY」でもいい、などと悪態をついていた[2, p. 74]。結局、副プロデューサーのクレジットは外れ、マッキンレー・カンターとミラード・カウフマンの共同脚本に、カンターが原作者としてクレジットされた。カンターはモノグラムとキング・ブラザーズ・プロダクション相手に訴訟を起こし、『拳銃魔』撮影中の1949年6月に25,000ドル勝ち取っている[49]。
全編を通して、ヴィクター・ヤング作曲、ネッド・ワシントン作詞の「Mad About You」のメロディが使われている。この曲は映画のために作曲・作詞されたものだが、映画が公開される前にすでにフランク・シナトラがリリースしていた(1949年9月)。ヴィクター・ヤングとネッド・ワシントンは、1944年のパラマウント映画『呪いの家(Uninvited, 1944)』のために「Stella by Starlight」を作曲、大ヒットさせている。キング兄弟がこの二人組を起用したのは、もちろんこの「Stella by Starlight」のヒットを踏まえてのことである(キング兄弟はジュークボックスのビジネスも続けていて、ヒット曲の傾向や、作曲家、作詞家にも詳しかったのだろう)。ヤング独特の印象的な3つの和音からなる解決しない和音進行が繰り返され、バートとローリーの運命を最後まで引きずり続ける。ダンスフロアで一度だけ別の曲が登場する。ベン・ラレー作曲、バーニー・ウェイン作詞の1946年の曲「Laughing on the Outside (Crying on the Inside)」、歌っているのはフランシス・アーヴィンだ。この曲もダイナ・ショアーやアンディ・ラッセルが歌ってヒットした。
ジョセフ・H・ルイスは、後年「完成品を見たMGMのトップが、『キング兄弟のクレジットを外せば、MGMで配給しよう』と言った」と発言しているが、極めて信憑性の低い話だ。この映画は最初からユナイテッド・アーチスツが配給する手はずだったし、MGMは間違っても無名俳優が主演をしているこんな低予算作品を配給するはずがない。ルイスがこの直後にMGMと契約を結ぶ際にMGMの誰かが言ったお世辞くらいのものだったのではないか。
ユナイテッド・アーチスツのニューヨークオフィスが「こういう映画を好む現在の観客のニーズに合わせて、もっとドキュメンタリーの雰囲気を醸し出すタイトル(モーリス・キングのメモ書き)」に変更するよう要求してきた[2, p. 151]。「ドキュメンタリーの雰囲気(documentary flavor)」というのが、この映画のマーケティングにおいてどいいう狙いと意味を持っていたのか見当がつかないが、何かが引っかかったのだろう。当時の「Gun Crazy」という言葉の使われ方をみると、「銃を撃って人を殺すことに何のためらいもない人間」という意味合いがあったように思われる。ギャングの抗争や連続強盗殺人の報道に使われることが多く、「Trigger-happy」に近いが「人を殺す」という忌まわしさがまとわりついている。タイトル変更の協議の結果、「Deadly is the Female」が選ばれたが、この結果を見るとターゲットにしている客層を変えたように思われる。「ラドヤード・キプリングに敬意を表して[59]」と言及されているとおり12)、デリンジャーのようなギャングや殺人犯を喜んで見に来るティーンエージャーの少年たちよりも少し教養の高い層を狙ったのではないだろうか。
『Deadly is the Female』は1950年1月26日、ロサンゼルスのRKOパンテージ劇場、RKOヒルストリート劇場で公開される。公開翌日の1月27日、キング兄弟の父親ジョセフが亡くなっている[60]。
Reception
この映画は、公開当時アメリカでは無視され、その後フランスでヌーヴェル・ヴァーグの若者たちが熱狂した、と言われてきた。後半はその通りかもしれないが、「アメリカで無視された」というのはもう少し説明がいるだろう。プレビュー後の業界紙の映画評は絶賛とはいかないまでも好評だった。全体の論調は「よくできている、売れないだろうけど」というものだ。
この映画は、緊迫感あふれるメロドラマとして実に優れている。容赦ないスピード感で絶え間なく観客を引きつける。
Motion Picure Daily[61]
キング兄弟への賛辞も見られる。
「Deadly is the Female」の製作をもって、キング兄弟はプロデューサーとして成熟したと言ってよいだろう。この作品は大々的に公開されるべきだ。
Harrison’s Report[62]
このタイトルを気にっている人達もいる。
キャストは興行的には不利だが、このタイトルは客を引き寄せる力がある。口コミで広がるだろう。
Showmen’s Trade Review[61]
封切りは、まずロサンゼルスだけだったが、大絶賛だった。ロサンゼルス・イブニング・シチズンのアン・ヘルミングは「最高のメロドラマ」と呼び、最初から最後まで褒め倒している。特に<悪女>を演じたペギー・カミンズの演技に惜しみない称賛を送っている。
型破りな配役で冷血な殺人鬼を演じたことが驚きだが、それだけではない。彼女はとにかく、とにかく、素晴らしい。
Los Angeles Evening Citizen News[63]
もともと、他の地域と比べて、ロサンゼルスの新聞の映画評論家たちのレベルは高いのだが、こういう映画のときは圧倒的な差を見せつける。デイリー紙のデビッド・ボンガードは、ハンプトン銀行の長回しをしっかりと取り上げていた。
これは、現代の「マクベス」とでも呼ぶべき作品だろう。誰がいちばん良い仕事をしたかという議論が起こるかもしれないが、映画というものにおいてはなかなか決められない。私に言わせれば、カメラマンのラッセル・ハーランがこの映画のスターだ。
Daily News (Los Angeles)[64]
このロサンゼルス・ミラー紙のディック・ウィリアムズの評は、ジョセフ・H・ルイスが切り抜いて保存していた。
「Deadly is the Female」に印をつけておけ。1950年最初の驚きのヒット作だ。
Mirror News (Los Angeles)[65]
キング兄弟は、タイトルを変更したのちに、カミンズをハリウッドに再度呼び寄せて広告を作り直している。「Female」に合わせてカミンズを中心に据えたマーケティングに路線変更したのだ。その広告を見たヘッダ・ホッパーは「有名なボニー・パーカーのポーズにそっくりですね」と、どうでもいいことをコメントしている。
ロサンゼルスでは、RKOのフラグシップ劇場2館で封切ったものの、低調だった。9日間で「25,000ドルしか」興行収入がなかった[66]。最大の理由はジョン・ウェイン主演の『硫黄島の砂(Sands of Iwo JIma, 1949)』が大ヒットしていたからであろう。RKOの2館はこのジョン・ウェイン人気にあやかろうと『拳銃魔』を早々に引っ込めて、事もあろうに『バターンを奪回せよ(Back to Bataan, 1945)』の再映をはじめる13)。RKOシアターチェーンも株主(!)に義務があるとはいえ、2週間続けてハリウッド・テンの作品がロサンゼルスの真ん中で上映されていたということになる。どうやらヘッダ・ホッパーは赤狩りの仕事をサボっていたようだ。
その後、各地方の都市での興行に移るが、各地の新聞評も決して悪くはない。「この作品は、同じ犯罪映画でももっと手のこんだ金のかかったものより随分出来が良い。なかでも、ジョン・ドールの演技がなかなか良い(Chicago Tribune[67])」、「演技は良いが、話は凡庸(Boston Globe[68])」、「今シーズン、驚きのスリラー作品(Miami Herald[69])」と言った具合だ。実は、映画館主の評判も悪くない。
小規模の映画にしては優れている。上映することをお勧めする。
デンジル・ヒルデブランド アルジェリアン劇場 ミズーリ州リスコ[70]
ニューヨークの映画館主は主演俳優たちの名前よりも一瞬しか映らない食肉工場の会社の名前に絶大な注意を注いでいる。
グレゴリー・ペック、ヘレン・ウェスコット主演 ─── 素晴らしいラブストーリーに、もっと素晴らしいアクション、ちょっと粗野だが、ヴィクター・ヤングの音楽がより盛り上げている。だが、この映画、ちょっと見ていて嫌になるのは、配給会社が広告会社とつるんでいるのか、アクションの大部分が全国的に有名な食肉加工業会社の敷地内で起きるのだ。この会社の名前がアクション自体よりもいやに目につくのだ。観客に見せる前に、あらかじめ自分の目で見てみて、広告の部分は編集して切っておいたほうが良い。それでも何かフィルムが残ったら、つないで見せたらよい。この配給会社は前にも、ビールだ、ソフトドリンクだ、雑誌だの広告だらけの映画をよこしてきた。
チャールズ・ロッシ パラマウント劇場 ニューヨーク州シュルーム・レイク[71]
アメリカ人の行くところには、フィルムが届けられる。
なかなか良いアクション映画だが、インディアナ州の検閲のせいでストーリーの繋がりがよくわからないところがある。観客は切られたところを自分の想像で埋めるしかないが、気にしていないようだった。
それでも、興行は低調なままだった。タイトルを「Gun Crazy」に戻しても結果は変わらなかった。
おそらく、興行失敗の最大の理由はユナイテッド・アーチスツ(UA)のマーケティング能力の欠如と配給力のとめどない収縮だろう。1949年当時、UAは赤字の膨張を抑えることができず、業界でも誰も見向きもしないほどに影響力が落ちていた。さらにメアリ・ピックフォードとチャールズ・チャップリンのエゴが経営の刷新を阻んでいた。テレビとの差別化やポヴァティ・ロウとの決別をすればなんとか浮上すると思っていた経営陣が、「Gun Crazy」を見たいと思うような観客のほうに意識を向けていなかったのだ。
『拳銃魔』と『俺たちに明日はない(Bonnie and Clyde, 1967)』の比較はどうしても避けられないだろう。そして、『俺たちに明日はない』の脚本家、ロバート・ベントンとデヴィッド・ニューマンが、1964年にニューヨークでフランソワ・トリュフォーとジャン=リュック・ゴダールに会い、トリュフォーの提案で『拳銃魔』を見た話も。ゴダールがベントンとニューマンに「私はシネマの話をしているのに、君たちは気象の話をしているのかい」と言ったという逸話も。
レイモンド・ボルドとエティエンヌ・ショームトンは、『拳銃魔』を「現代において、<狂気の愛 l’amour fou>を描いた、極めてまれな例」と呼び[73, p. 94]、ポール・シュレーダーは「これは、運命だとか、呪われた愛だとか、詩的なノスタルジアとかではない、向こう見ずな愛とノン・ストップ・アクションへの刺激的な賛辞だ」と書いた[74]。
数多くの批評家たちが、限りない文字数を使ってこの作品を称賛してきたが、ここではIMDBの一般ユーザーのレビューを見てみたい。
ジョン・ドールは少し硬いかもしれないが、存在感はある。ペギー・カミンズは素晴らしい。なぜ、どうして彼女は、もっとフィルム・ノワールに出なかったんだろう?彼女こそ悪女のヒロインはこうあるべきだという見本だし、他の女優は全く足元にもおよばない。この二人は自分たちで車を運転している。彼らがぶっ飛ばしているあいだ、私達は後部座席に座って素晴らしいストリート・シーケンスを楽しもう。 当然、すべてが呪われているが、なんと言ってもこれは乗りがいのあるドライブだ。
christopher-underwood
Analysis
レミントン
『拳銃魔』のオープニング・クレジットには、いつもの見慣れた文章が堂々と宣言されている。
この映画に登場するすべての出来事、人物、企業、組織はフィクションです
にもかかわらず、その13分後には、バートがこんなことを言う。
Maybe get a job with Remington.
レミントンに就職しようかな
バート
バートが「レミントン」の名前を口にする前に、並べた瓶を的に射撃の腕を見せているが、その時使っているのはレミントンの.22パンプアクションライフル<フィールドマスター>なのだそうだ[75]。さらに、このライフルはバートとデイブ、クライドが子供のころに狩りに行ったときに持っていた銃でもある。あのシーンは、バートが、3人の思い出のレミントンのライフルで誇らしげに銃の腕前を見せ、レミントンで働いてまっとうな人生を送ろうかなとぼそりと言う、といった具合に淀みなくつながっているのだ。
もちろん、オープニングの宣言に従えば、これはフィクションの<レミントン>や<フィールドマスター>であって、アメリカに現在も存在する銃器ブランド、レミントンやその製品のことではない、ということなのだろう。しかしそれは方便であって、映画は観客にリアルな世界の触感を体験させるために(あるいはそれを口実にして)、実際に存在するブランドや製品をスクリーンに投影してきた。当時も今も、観客もそのくらいは分かっている。
当時のレミントンの広告では、子供がこの<フィールドマスター>を抱えて獲物の方角を指さしているイラストが掲載されている。指さした先にはウサギやネズミが描かれている。<フィールドマスター>は、.22口径という小さい口径のおかげでリコイルも小さく、射撃を習い始めた子供でも肩にあざを作らずにウサギやリスを標的に練習できる。大きなシカやクマを撃つ大人は、ボルトアクションの.30や7mm口径ライフルを持っている。
少年時代のバートは、一度も大人の銃を持たせてもらえていない。彼がオープニングで盗むのはコルトのM1917、.45口径のリボルバーだ。しかし、すぐに見つかってしまう。バートが学校で自慢気に見せるのは、コルト・ポリスポジティブ、これも結局取り上げられてしまう。つまり、私達が見ている画面のなかでは、バートはローリーに遭うまで、子供の銃 ─── BBガンと.22口径のライフル ─── しか撃っていないのだ。
カーニバルでローリーが撃っているのは、ニクロムメッキが施されたコルト・ポリスポジティブ。そう、バートが少年時代に学校で取り上げられた銃と同じ型だ。学校の先生、ミス・ウィン ─── <ミス>という点が示唆的だ ─── が校長に、そして保安官に言いつけて、彼から奪った銃。それを、若いベビーフェイスの女が、両手に持って、空に向かって撃ちながら登場する。
このカーニバルのシーンで、私達はバートとローリーが<大人の銃>で競い合うのを見る。もちろん、そこには性的な意味合いがあるのは間違いない。だが、よく言われるように拳銃を男性器の象徴と見立てて解釈してしまうと(例えば[76])、そこで全てが終わってしまう。バートは性的に不能だったり、フラストレーションを溜めているように見えるだろうか?あるいは、彼の行動がすべて性的衝動で突き動かされているように映されているだろうか?彼を<マゾヒスト>とだけとらえて、受動的な<快楽>を求めている人物の造形と考え、物語を解釈してしまってよいのだろうか?
確かに多くの映画が、拳銃と暴力、暴力とエゴイズムの寄生関係を描き、拳銃に男性的な形態のシンボリズムを重ねてきた。口径のでかいスミス&ウェッソンM29を持って、自分が強者になったかのように力を誇示する『タクシー・ドライバー』のトラヴィス・ビックルはその好例だろう。だが、ビックルは銃の愛好家というわけではない。銃が手に入らなければ、ナイフや素手で暴力を遂行したに違いない。アメリカで毎年発行されている「Shooter’s Bible」という本がある。これを覗くと、多種多様な銃について、その種類、特徴、構造、機構、運用、歴史、といったことが豊富に記述されている。銃の愛好家は、クルマやバイクの愛好家や、鉄道オタクたちとなんら変わらない。物体としての対象に深い興味があり、そういった情報を飽くことなく吸収する人たちなのだ。
コルト・ポリスポジティブの光る銃身、その白く光る、硬質でなめらかな表面をもつ物体を自らの手に握ってみたい、その重さを感じてみたい、といった好奇心が湧くのはおかしくない。その好奇心の発現と実際に手にとって触る経験を繰り返すと、それが欲望になり、渇望になり、執着になる。それは<拳銃>という抽象的な観念ではない。『拳銃魔』の批評として、<銃>という<機械>への執着についての側面を取り上げた議論もある[77]。この視点は重要だと思う。<機械>よりもさらに一歩踏み込む必要があるかもしれない。画面に登場する各々の銃にはそれぞれ役割が与えられ、バートとローリーの物語の影のけん引役になっている。それらは、すぐに<セックス>と等価交換される一般名詞の<銃>ではなく、レミントン.22パンプアクションライフル、コルト・ポリスポジティブ、コルト・ディテクティブといった具体的な<商品>である。この<商品>あるいは<消費>という活動が、『拳銃魔』には埋め込まれている。厄介なのは銃という<商品>は、アメリカの<歴史>にフラクタルのごとく棲みついているということだ。国家として巨視的に見ても、家族や個人として微視的に見ても、銃は歴史を持ち、生き延びようとする。
銃を持つということ
ハリウッド映画に登場する銃は(銃が好きな人だけでなく)誰もが親近感を感じることができるものです。
ジム・スピカ、全米ライフル協会博物館館長[78]
『拳銃魔』と同時期に公開された映画に『拳銃45(Colt .45, 1950)』がある。これは、19世紀中頃の西部を舞台にコルトの拳銃をめぐる闘いを描いた西部劇である。ここで登場するのはコルト1851だ。米墨戦争(1846 – 1848)から南北戦争(1861 – 1865)を経て、アメリカの銃器産業は地域のガンスミスによる生産から、工場での生産の時代に入っていく。それに伴ってセールス、マーケティングといった活動も盛んになる。『拳銃45』の冒頭は、コルトのセールスマン、ランドルフ・スコットが、コルト1851のセールストークを滔々と述べるところから始まる。アメリカの米墨戦争での戦い ─── すなわち、アメリカの歴史 ─── が、そのままコルトの宣伝材料になっている。『拳銃45』しても『ウィンチェスター銃’73(Winchester ’73, 1950)』にしても、銃器のブランドが題名に使われ、アメリカの歴史ファンタジーを構築するための支柱となっている。自動車やソフトドリンクよりも前に、銃器メーカーがブランドとして存在して人々の生活に染み込み、歴史の形成材料となっていった。しかも、一般名詞としての<銃>ではない。<コルト.45>、<ウィンチェスター1873>という、固有名詞、具体的な製品に歴史がまとわりついており、これらの西部劇は<オブジェクトとしての工業製品>への執着を歴史的なファンタジーとして描こうとする試みだったとも言える。
コルト1851が米墨戦争にまとわりついているのなら、あるドイツ人がニカラグアで手に入れたウィンチェスターの.22リピーティング・ライフルはマッキンレー・カンターの一族にまとわりついている。
マッキンレー・カンターの息子、ティム・カンターによる父親の思い出を綴った文章に、こんな一節がある。
もちろん、フロリダのカンター家には、銃があった。たくさんあった。30-30ライフル、ヴォン・クロッグ博士がくれたウィンチェスターのリピーター、私が8歳の誕生日プレゼントにもらった.22単発銃。リボルバーもあった。父さんの.44スペシャル、母さんの.22-.32(父さんが家にいないときにはベッドサイドテーブルの引き出しに入れていた)、それから私が12歳の誕生日に父さんからプレゼントされた、自慢の.22コルト・ウッズマン・オートマチック(「ほら、ティミー、もうこれを扱える歳になっただろ」と父さんは言った)。それから、オートマチックがもう一丁、父さんがドイツで<ナチスから解放した>P-38。
My Father’s Voice: MacKinlay Kantor
この銃の数には驚くばかりだ。マッキンレー・カンター自身の銃への執着、そしてそれを息子のティムが受け継いでいる。それぞれの銃に歴史がある。このなかでも<ヴォン・クロッグ博士がくれたウィンチェスターのリピーター>はひときわ奥深くカンター家の歴史に食い込んでいる。ヴォン・クロッグ博士はドイツ人の薬剤師で、世界中を旅したのち、アイオワ州のウェブスター・シティにたどり着いた。その彼からマッキンレー少年はこの.22ウィンチェスター・リピーティング・ライフルを受け継ぐのである。
この銃は、マッキンレー少年のものとなった。彼は家に入り、それを眺めた。冷たく青く光る金属、温かい褐色の銃床。少年はそれを優しく撫でた。
My Father’s Voice: MacKinlay Kantor
マッキンレー少年は、はじめはリスやウサギをそれで仕留めていた。しかし、だんだんと紙の的やブリキの缶を撃つようになった。これは、母親エフィーの影響ではないかとティムは言う。大人になった頃には温かい血の流れる生き物を撃つことはなかった。戦争になり、爆撃機の射撃手となって、機関銃でメッサーシュミットを掃射するまでは。
つまり、『拳銃魔』の原作である「Gun Crazy」という短編を書いた頃(1940年)のマッキンレー・カンターは、主人公のネリーのように生き物を銃で撃たなかった/撃てなかったのである。それが、戦争で果てしなく、止めどなく、殺すために銃を撃ち続けた。戦争から帰ってきた彼が「Gun Crazy」を脚本に仕上げていくときに、短編では数行しか登場しなかった女性の存在を物語の中心に据え、殺戮の使者として描いた。この変化はなんだろう?
もちろん、映画にするのだから、エキサイティングなアクション・シーンを増やしたかったという解釈は順当だろう。男と女の話にするほうが、観客への受けもいいだろう。だが、彼自身が<生き物を撃てない>という感受性をどこかで育んでいながら、その箍が簡単に外れるという経験をしたのだとすれば、この殺戮の使者は単なる方便ではないと考えてみるのもよいのではないか。<生き物を撃てなくした>のが母親という女性の存在の影響ならば、それを<解除>したのも女性の存在なのだろうか。その女性は実在なのか、それとも、アメリカの象徴<自由の女神>のようなシンボルなのか。カーニバルの射撃コンテストでマッチのリングを頭にかぶったローリーが、自由の女神のように見えるのは、偶然なのか、意図的なのか。
(アメリカはその歴史を通じて)<フロンティア精神>が支配的になると暴力沙汰が起き始めるが、その町や地域が<文明的>になる ─── すなわち、立派な女性たちの数が増え、その影響を地域に及ぼすようになると、男たちは武器を置き、経済的活動が活発になる。
Gun Culture [79]
マッキンレー・カンターの当初の脚本では、オープニングのクレジットのバックに「コルト.45フロンティア・モデル15)」を握った手を映すように指示があった[80]。これはネリー(バート)の父親の銃だという。アメリカ社会で、アメリカの映画館で<銃>が<銃>として機能するためには、具体的な<製品>でなければならない。少なくない観客がどこかで見た覚えのある銃、その形態や色や感触で、自分の家族やコミュニティや土地に伝わる銃の系図を想起する、そういった銃でなければならない。自分自身の<銃>に対する姿勢から、カンターはそう考えたのだろう。だから、彼は「コルト.45フロンティア・モデル」と指定したのだ。物語内の空間で<拳銃狂>の二人が銃に執着しているだけでなく、物語外の場所、すなわちスクリーンと観客のあいだの場も、<拳銃狂>の執着が染み込んだ消費文化によって形成されているということになる。
その後の改訂やトランボ稿を経て、このオープニングは削除された。出来上がった作品には、前述のように.22レミントンやコルトの拳銃が登場するが、世代をわたる歴史の匂いは消し去られ、バート個人の記憶としてのレミントン・フィールドマスターやコルト・ポリスポジティブが物語の牽引役となっている。優れた職人技によって作られ、代々伝えられる製品ではなく、消費財としての銃が画面を占領しているといってもいいだろう。
広告と消費の時代
アメリカの大衆にとって、銃が消費と執着の対象ならば、もう一つの大きな消費と執着の対象は自動車だ。そして、『拳銃魔』は自動車で移動し、自動車で逃走し、自動車でラブシーンを演じる。そして、銃と同じく、具体的な製品としての自動車がスクリーンに映し出される。例えば、ローリーがヒッチハイクを装って乗り込み、コルト・ポリスポジティブで脅して乗っ取る自動車、あれは1948年型キャデラック62だという。このキャデラックの撮り方は、極めて露骨だ。クルマの後部座席に設置されたカメラは、ダッシュボードにあしらわれたキャデラックのロゴをはっきりと映し出している。さらにその次のショットで、クルマの後部の外観がとらえられ、特徴的なV字のエンブレムと、飛行機の尾翼になぞらえた48年型に独特なテールフィンが現れる。犯行後には、フロントのエンブレムがクロースアップで映し出される。
1960年以前の低予算映画では、運転中の場面をスクリーンプロセスで映し出すことが多い。この映画でも、スタジオでプロセスを使って、走行中の車のバートとローリーを正面からとらえているシーンがいくつか登場する。こういったプロセスショットで登場する<自動車>は、市場に実在するモデルとは無関係な、非実在の<自動車>であり、背景は非実在の<背景>だ。観客は積極的に不信の念を停止した状態に自らを晒して、これを受け入れる。
『拳銃魔』は、自動車の後部座席からのロケーション撮影の視野をスクリーンに投影する。レンジャーズ&グロウワーズ銀行を襲撃したあと逃走するシーン、ハンプトン銀行の襲撃のシーン、アーマー食肉加工工場からの逃走シーンは、実在の自動車(それぞれ、1948年型カイザー・ヴァガボンド16)、1947年型ヘス&アイゼンハート製キャデラック・エアポート・リムジン、1941年型ビュイック・ロードマスター・コンヴァーティブル)を使って、実在の場所(それぞれ、リシーダのリシーダ通りとシャーマン通りの交差点、モントローズのダウンタウン、ロサンゼルスのイースト・オリンピック通りに存在したアーマー食肉加工工場)で撮影されている。車窓の外に映る風景も、車内の造りについても、観客は約束事から解放され、実在の<自動車>と実在の<ロケーション>を信じることができる。実在の<自動車>は商品であり、実在の<ロケーション>は生活の場だ。後部座席から撮影されたシーンも、ストリートの風景も、アメリカの消費生活のドキュメンタリーと呼んでもよいだろう。
ロケーション撮影を徹底的に利用した作品は、この時代でも他に数多く存在する。しかし、『拳銃魔』のロケーション撮影は、どこか一線を画しているのだ。例えば、『裸の町(The Naked City, 1948)』や『眠りなき街(City That Never Sleeps, 1953)』、『国境事件(Border Incident, 1949)』、『サイド・ストリート(Side Street, 1950)』などの作品では、ニューヨークやシカゴ、メキシコ国境といった具体的な町や地域が選ばれ、これらの土地に特有の商業施設やランドマークが被写体として登場する。だが、全国に展開されているブランドのロゴや名称はほとんど登場しないか、登場しても目立たないように配置され、一目で認識できる場合は極めて少ない。それが『拳銃魔』では、銃のレミントン、コルトに始まり、自動車のキャデラック、カイザー、パッカード、そして食肉加工の全国ブランドであるアーマー、ガソリンスタンドのテキサコ、北米にチェーンを展開していたレキソール・ドラッグ、時計のブローバ、そしてコカ・コーラと、当時のアメリカに住んでいた者なら誰でも目にしたことがあるブランドが、次から次へはっきりとスクリーンに映る。あたかも現代のプロダクト・プレースメントのごとく。
プロダクト・プレースメントはサイレントの時代から頻繁におこなわれていた。1930年代に入ると、より手の混んだ、巧妙なものになっていく。タイアップ・プログラムはメジャー・スタジオが最も好んだ手法だった。これは、映画の主演が特定の製品を勧める広告を映画の公開に合わせてうつ、という方法で、実は『拳銃魔』もラックス石鹸とタイアップ・プログラムを行なっていて、ロサンゼルスの映画公開の当日のロサンゼルス・タイムズになどにジョン・ドールとペギー・カミンズがラックスの広告に登場している。メジャー・スタジオの場合は、極めて効果的にこのプログラムを実行する。
最も古典的なやり方では、マーケティング開発部のトップは脚本が出来上がるように手配をし(タイアップはこのステージでやると良い)、この脚本をブレイクダウンして商品やサービスのカテゴリーに分類し、それでスポンサーの探索を始めるのだ。
チャールズ・エッカート[81]
『マンハッタン・メロドラマ(Manhattan Melodrama, 1934)』ではコカ・コーラ、スクイブ、シボレーの広告がはっきりとビルボードに見えるニューヨーク、タイムズ・スクエアが映り、『ウィークエンド・イン・ハバナ(Week End In Havana, 1941)』ではメイシーズ百貨店が登場する[82, p. 21]。『ミルドレッド・ピアース(Mildred Pierce, 1945)』でジョーン・クロフォードがジャック・ダニエルズの瓶を手にし、『エンジェル・オン・マイ・ショルダー(Angel on My Shoulder, 1946)』にはRCAラジオが登場し、『ホイッスル・ストップ(Whistle Stop, 1946)』ではヴィクター・マクラグレンがシュリッツ・ビールを「うまい」と褒める[83]。インディアナ州劇場主組合(Associated Theater Owners of Indiana, ATOI)は、ナショナル・ブリューイング・カンパニーが「重要な広告プログラムの一環」として『遅すぎた涙(Too Late for Tears, 1949)』、『狂った殺人計画(Impact, 1949)』など数本の映画で自社のビールを画面に登場させているという内部文書を手に入れて抗議している[84]。これらのプロダクト・プレースメントでは、製品やブランド名を戦略的な方法で画面に登場させて、場合によってはタイアップ・プログラムやその他のプロモーション活動と連携させていたようである。
『拳銃魔』における企業ブランドの扱いは、もしプログラム・プレースメントの一環としておこなわれているのであれば、明らかにその趣旨にそぐわない。だいたい、アーマー社が映画に登場するのに、なぜタイアップの石鹸がアーマー社の新製品ダイアルではなく、ユニリバーのラックスなのか。バートが飲むビールのブランドはよく見えないけれど、それでもなぜバートに「このビール、ぬるくてまずい」と言わせるのか。ローリーは、カイザー・ヴァガボンドのアクセルを踏みながら「この車、加速が悪い!」とまで言う。これはプロダクト・プレースメントというよりは、もはや商品が画面にとめどなく侵入してきて隠しきれなくなっているのだろう。
戦争はアメリカの恐慌時代をうやむやにし、アンフェタミン漬けの大量生産活動の高揚状態を生みだした。戦争中の配給や物資不足は、戦争の集結とともに雲散霧消し、大量の、新しい、優れた製品が市場になだれこんだ。フォードは戦争中の増産体制をそのまま戦後も維持し、デュポンはナイロンやポリエステルやアクリルといったプラスチックをアメリカ中に氾濫させる。GMやシボレーは毎年、新型を発表し、郊外に戸建て住宅が増殖する。1940年に2,000億ドルだったGDPは、10年後の1950年に1.5倍の3,000億ドルに到達した。アメリカのどこの街とも交換可能な南カリフォルニアという土地で、カメラを振り回せば、興奮状態にある消費社会が映り込んでしまうのだ。
キング兄弟とダルトン・トランボが、銃の物語から歴史を消し去ったのも理解できる。プラスチックの時代は、モノから時間を消し去り、自分がそのモノを手放すときは捨てるときだという感覚を消費者に植え付けてきた。フラクタルのスケールで、最もプライベートな部分の<自分の歴史>か、もっともマクロな部分の<国家の歴史>という両極だけが、大衆の求めるものだという視点は、その後のハリウッド映画にもはっきりと現れている。
『拳銃魔』の要素が最も凝縮したイメージ、有名なスチール写真を見てみよう。コカ・コーラのサインが見えるレキソール・ドラッグを背景に、ウィルソナイトのサングラス、黒いベレー帽、ロングコートのローリーが、光るコルト・ポリスポジティブの引き金をひこうとする。それをアメリカン・オプティカルのサングラス、キャメルのコートに身を包んだバートが必死で止めている。この交差点は、リシーダという眠たい郊外の町で唯一店が並んでいる場所だった。アメリカの最もアメリカらしい風景といえるかもしれない。ニューヨークのタイムズ・スクエアというランドマークでコカ・コーラのロゴが映り込むのとは、まったく違う。写っているのはクラーク・ゲーブルでもなければ、カルメン・ミランダでもない。<そのあたりの近所>で<無名の男女>を被写体に誰かがカメラを回したような(そして実際そうだった)、にもかかわらず、最も危険で<かっこいい>男女が写っている。1950年代以降、多くの国で誕生した<ポップな>映画文化の源流を、後世の映画ファンがこの写真に見てしまうのは無理もないことだろう。
アウトローのブランド
前述したように、アーマー食肉工場のシーンはカンターの初稿から登場している。カンターも、トランボも、ルイスも、これは明らかに重要なシーンだと考えていた。これはもちろん、狩りができないバートが、屠殺体を笑顔で運ぶというアイロニーが意図されている。
アメリカの食肉加工産業は、西部の開拓と表裏一体の関係にある。19世紀、西部での牧場の開発が加速し、サウス・ダコタ、ネブラスカ、モンタナ、ワイオミング、アイダホといった土地では畜産が盛んになっていく。その牧場で育てられた家畜が鉄道でシカゴやシンシナティに運ばれ、アーマーを始めとする食肉加工工場で<加工>されるのである。つまり、バートとローリーがハンバーガーを食べるシーン、カウボーイの衣装でハンプトン銀行で強盗をするシーン、食肉加工工場で強盗をするシーンはすべて繋がっているのだ。1949年のアウトローは、家畜を育てる人間になりすまして金を盗み、家畜を屠殺して加工する人間になりすましてまた金を盗む。
アウトローもブランドである。
トディ・ピクチャーズという製作会社が製作した『キラーズ・オール(Killers All, 1947)』というタイトルの<ドキュメンタリー>映画がある(フィルムの存在は不明)。これは地方の映画館を巡回する典型的な見世物映画のひとつだったと思われる。ポスターや広告によれば、このキラーズとは 社会の敵ナンバーワン・ジョン・デリンジャー、プリティボーイ・フロイド、マシンガン・ケリー、葉巻をくわえたボニー・パーカー、拳銃狂クライド・バロー、レイモンド・ハミルトンの6人を指す。いずれも恐慌時代に、法をあざ笑うかのように強盗、殺人、誘拐を続け、新聞を賑わせたアウトローである。このアウトローたちが、当時の大衆、特に青少年の想像力をかきたてていたのは間違いない。キング兄弟の『犯罪王デリンジャー』が大ヒットしたのも同じ理由だ。幾度も映画化され、メディアでも取り上げられてきた。だが、警察を相手に回した、とか、すぐに銃をぶっ放す、というのであれば、他にも犯罪者は数多くいる。ニューヨーク市警と2時間の銃撃戦を繰り広げて19歳で死刑になったフランシス・<二丁拳銃>・クローリーや、やはり警察官を射殺して派手な逃走劇を繰り広げて新聞を賑わせたノーマン・<デューク>・ゼフなど、挙げればきりがないが、なぜか彼らは忘れ去られていく。<ブランド>になるためには、必要な要素があるのだ。ルックス、生い立ち、意思の強さ、あるいは弱点、運の強さ、あるいは運の無さ、際立つ癖、誰もが不思議に思う謎、そして何度語られても人を驚かすエピソード、そういったものがブランドの形成と存続には必要なのだ。この『キラーズ・オール』の6人を見てみると、すでに1947年、すなわちこのアウトローが活躍して10年ほどのあいだに、伝説として語り継がれるアウトローが選ばれているという点が際立つ。
ハリウッドは、その長い歴史において、アウトローのブランド戦略を丁寧に繰り返し机上にあげ、練り直し、書き直し、映し直し、売り出してきた。<ボニーとクライド>というブランドは、そのなかでも最も強固な<犯罪者カップル>ブランドであり、そのブランド形成の基盤となったのは、他ならぬボニー・パーカー本人が残した「ボニーとクライドの歌」という詩である。この詩は、あきらかに<民衆のヒーロー>の伝説生成に意識的であり、クライド・バローの生きざまを<間違った法の社会が生んだ不幸>として描く。自分たちは新聞や警察が描くような<悪>ではない、だがきっと滅ぼされるのだ、という悲劇の運命のトーンが、実際の彼らの最期のイメージと重なるという未来を予見したかのような詩だ。この詩が歌う<ボニーとクライド>を見れば、『拳銃魔』がそういった<民衆のヒーロー>とか<誤解された二人>といった伝説形成とはかなりかけ離れているのが明白だ。むしろ、エディ・ミューラーが指摘したように、この物語は、暴れ狂う<女デリンジャー>が基盤にあると考えたほうが良いのかもしれない。『犯罪王デリンジャー』の成功に満足したキング兄弟が、その女性版を作れば、また売れるだろうと考えたのであれば、合点がいく。
確かに、バートは本当は善人なのかもしれない。だからといって、彼を<民衆のヒーロー>と捉えるのは無理がある。この二人は、誰からも<誤解>されてもいないし、法の社会の矛盾が生んだ偏見や理不尽に晒されているわけでもない。彼らは何かの犠牲者でもないし、社会から差別されているわけでもない。彼らはただ銀行を襲って金を奪う。その直截さ、率直さが際立っている。この点から見てみると、『暗黒街の弾痕(You Only Live Once, 1937)』や『夜の人々(They Live by Night, 1949)』は、(どこまで実在のボニーとクライドを意識したかは別として)<間違った法の社会が生んだ不幸><社会に誤解されている二人>を基盤に置いて物語が作られていて、『拳銃魔』がこれらの作品と一線を画していることがわかる。簡単に言ってしまえば、<快楽的>な犯罪者なのかもしれない。しかも、肉というアメリカ社会にとってなくてはならない食料を生産・調達する人間を装うという<遊び><挑発>の姿勢を、このアウトロー達に感じないわけにはいかない。
バートとローリーのようなアウトローは、それ自体が一つのブランドになったと言ってもよいだろう。例えば『トゥルー・ロマンス(True Romance, 1993)』や『ナチュラル・ボーン・キラーズ(Natural Born Killers, 1994)』にそのブランドの継承をみることができる。他にもその変奏や変形は数多く指摘できるだろう。だが、ブランドはいずれ衰退する。「女と銃があれば映画ができる」という表現も、D・W・グリフィスが言ったのか(グリフィスは「観客が見たがるのは女と銃Girl and Gunだ」と言った)、ジャン=リュック・ゴダールが言ったのか(ゴダールは「グリフィスは『観客が見たがるのは女と銃だ』と言った」と言った)、ゴダールが言ったことにしておけば映画ファンが喜ぶと思った計算高い批評家が<観客>を方程式から省いたのか、誰がそんな表現にしたのかは今となってはよくわからないが、もはや「映画ができる」と断言できるほどの説得力はない。現実の犯罪者の報道からも二丁拳銃とか拳銃狂といったミドルネームが消え、衝動的で乱暴な銀行強盗は魅力のないものになってしまった。牛を見たらとりあえずショットガンで撃ってみるようなアウトローは、レミントンというブランドが衰退したように、過去のものになりつつある。現在の映像に登場する銀行強盗たちは、ずいぶんと狡猾で計画的で、何を考えているのか分からないようなキャラクターばかりだ。
だが、バートとローリーは、<ボニーとクライド>とか、<追われる二人>といったアウトロー・ブランドよりは、もう少し私達に何かを語りかけてくる可能性を有しているような気がする。
かつて、フロンティアで銃を撃ち合っていた男たちは、立派な女性たちのおかげで銃を置いて文明的になったのだという。だが、その彼らの心のどこかに「石器時代にぶち戻せ」というメンタリティが棲息していた。置いた銃を眺めて愛でていただけだった男たちが、ある日、見知らぬ人間に機銃掃射を浴びせ、爆弾を投下することに何のためらいもなくなってしまう。サーフィンをやりたいからジャングルをナパームで焼き尽くすというデフォルメが成立するのは、おそらくそれが根幹のところではデフォルメではないからだ。そして、19世紀の西部のフロンティアよりもはるかに文明的になったはずの現在でも、おそらくそれはデフォルメではない。キルゴア中佐の精神的叔母としてアニー・ローリー・スターがいるならば、キルゴア中佐に精神的孫がいてもおかしくないだろう。そしてそれに付き合い、共犯になっていく、バートやウィラード大尉だって孫がいるだろう。ただブランドには、キャッチフレーズが必要だ。「拳銃狂」とか、「石器時代にぶち戻せ」といった、どこかはしたないキャッチフレーズが。
Links
2013年にサンフランシスコで開催されたNoir City Film Festival 11『拳銃魔』上映後、ペギー・カミンズのインタビューがおこなわれた。その時の様子を見ることができる。Video 1, Video 2, Video 3
BAMFStyleでは、『拳銃魔』のバート(ジョン・ドール)のファッションを分析している。戦後のアメリカで流行した<ボールド・ルック>がいかに現れているかが、詳細に説明されている。
「LIFE」誌のキング兄弟の特集記事は、Google Booksで閲覧できる。
Data
ユナイテッド・アーチスツ配給 1/27/1950公開
B&W 1.37:1
87分
製作 | フランク・キング Frank King | 出演 | ペギー・カミンズ Peggy Cummings |
製作 | モーリス・キング Maurice King | ジョン・ドール John Dall |
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監督 | ジョセフ・H・ルイス Joseph H. Lewis | ベリー・クレーガー Berry Kroeger |
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脚本 | マッキンレー・カンター MacKinlay Kantor | ネドリック・ヤング Nedrick Young |
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脚本 | ダルトン・トランボ Dalton Trumbo | アナベル・ショー Anabel Shaw |
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原作 | マッキンレー・カンター MacKinlay Kantor | モリス・カルノフスキー Morris Carnovsky |
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撮影 | ラッセル・ハーラン Russell Harlan | ラス・タンブリン Russ Tamblyn |
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美術 | ゴードン・ワイルズ Gordon Wiles | ||
編集 | ハリー・ガースタッド Harry Gerstad | ||
音楽 | ヴィクター・ヤング Victor Young |
Notes
1)^ 彼らの年齢もはっきりとしたことがわからない。国勢調査の記録や「LIFE」誌の記事ではモーリスが長兄で1911年生まれ、フランクが次兄で1914年生まれ、ハーマン(ハイミー)が末弟で1917年生まれとなっているが、エディ・ミューラーによれば、フランクが長兄で1913年生まれ、モーリスが次兄で1914年生まれ、ハーマンが末弟で1916年生まれとなっている。
2)^ 当時のロサンゼルスの犯罪組織の状況は、政界、警察、司法、ロサンゼルス・タイムズをはじめとするメディア、映画業界を含む産業界がすべて何らかの形で腐敗と関わっており、事実関係を把握しにくい。おおまかには、1910年代からロサンゼルスを支配してきた「コンビネーション」と呼ばれる一派と、1930年代に力を伸ばしてきた「オーガニゼーション」の一派のあいだでの勢力争いに、クリントン=バウロン市長の改革派が割り込んでいる構図と考えられる。「コンビネーション」はチャールズ・クロフォード、元警官のガイ・マカフィーなど、警察と深く癒着して、売春、ギャンブルを支配していた。一方、「オーガニゼーション」は、東海岸のマフィアの支配下にあり、イタリア系のジャック・ドラグナとユダヤ系のベンジャミン・「バグジー」・シーゲルが1930年代後半に「コンビネーション」をラスベガスに押し出す形で影響力を伸ばした。「コンビネーション」の大物、ケント・パロットはCAMOAの事実上のトップであり、チャールズ・クラドウィックはCAMOAの弁護士だった。
3)^ この3年前にもコジンスキー兄弟は脱税で告発されている[85]。
4)^ ボブ・ガンズは「コンビネーション」の重要人物の一人で、ガイ・マカフィーのもとで市内のギャンブルを取り仕切っていた。
5)^ Archive.orgに、米国情報公開法によって開示されたとされる、FBIのロサンゼルス支局のレポート(FILE NUMBER: 100-138754)が保存されている(リンク)。このレポートを信じるとすれば、フランク兄弟の甥のロバート・リッチは1954年(『黒い牡牛』公開の2年前)から既にFBIと接触して情報を提供していたことになる。ロバート・リッチによれば、彼の父親アーヴィング・リッチは長年キング兄弟のもとで働いており、彼自身もキング兄弟の世話でスタンダード・コーヒー・カンパニーに就職した。キング兄弟は、週に1回、ロバートを使って、ダルトン・トランボと原稿や小切手をやり取りしていた。ロバートは、キング兄弟からトランボに渡っていた小切手の宛名や額を覚えていて、FBIに報告していた。この文書によれば、FBIはキング兄弟とダルトン・トランボの関係を二つの情報源から知っていたようだ。一つは1953年のエドワード・ドミトリクからの情報、もう一つはこのロバート・リッチからの情報だ。つまり、FBIはキング兄弟が「ロバート・リッチ」をクレジットに使う遥か以前に、ロバート・リッチの存在を知っていたわけである。キング兄弟は自分たちの甥がFBIに情報を流していることを承知のうえで、『黒い牡牛』のクレジットに「ロバート・リッチ」を使った可能性もあるだろう。ちなみに、アーヴィング・リッチは、前述のローズ・リッチ、キング兄弟の姉の夫で[86]、1940年代にキング一家が保有していたジュークボックスなどのビジネスの面倒を見ていた[87]。
6)^ マッキンリー・カンターの作品、特に雑誌に掲載された短編は、現在ほとんどが入手が困難である。この「Gun Crazy」は、ジェームズ・エルロイとオットー・ペンズラーが編纂した「The Best American Noir of the Century」におさめられた[88]。
7)^ マッキンリー・カンターのオリジナル稿(1947年3月24日付、約180ページ)はアメリカ国会図書館のマニュスクリプト部門に保管されている。トランボの改定稿(1948年11月18日付、146ページ)は映画芸術アカデミー(Academy of Motion Picture Arts and Sciences)図書館、そしてルイスが撮影に使用した脚本(1949年4月5日付、116ページ、ルイスのメモ書きも見られる)はシカゴ美術館フィルムセンターが保管している[80]。
8)^ 脚本では4ページ、11ショット。ルイスは後年のインタビューで「17ページ」と言っているが何かの記憶違いだろう。
9)^ このストレッチ・リムジンを使った撮影の様子の写真はエディ・ミューラーの本に掲載されている。この写真から判断すると、1947年のキャデラック・エアポート・リムジン(ヘス&アイゼンハート)が使用されたと思われる。片側4ドア、『サン・クエンティンからの脱出(Escape from San Quentine, 1957)』で使用されたものと同型だろう。
10)^ TCMのライター、キム・トゥペリがこのシーンを現在のモントローズで再現している(YouTube)。
11)^ この翌年、アル・ジェニングスの犯罪人生を映画化した『Al Jennings of Oklahoma (1951)』が映画化されている(link)。
12)^ ラドヤード・キプリングの詩「The Female of the Species」からの引用。「For the female of the species is more deadly than the male.」
13)^ キング兄弟のヒット作『デリンジャー』がロサンゼルスで公開されたときに、同じ週に公開され、邪魔をしていたのがやはり『バターンを奪回せよ』だった。
14)^ ラス・エル・ミシャブ(Ras el Misha’ab)はペルシア湾に面した場所である。ここで1947年からTrans-Arabian Pipeline (TAPLINE)の建設が始まった。このパイプラインを操業するのはアラムコで、スタンダード・オイル、モービルなどのアメリカの資本が入っていた。この劇場は現地に派遣されたアメリカ人向けのものだろう。
15)^ コルト・フロンティア・シックス・シューター(.44-40)のことだろうか。
16)^ カイザー・ヴァガボンドは後部座席を倒してフラットにし、広いカーゴスペースを確保できる。この車が選ばれたのは、後部座席からの撮影が可能だからだろう。
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