Address Unknown
コロンビア・ピクチャーズ配給
1944
あのカリフォルニアにいるストック素材役人ども・・・ウィリアム・キャメロン・メンジース
Synopsis
マーティン・シュルツ(ポール・ルーカス)とマックス・アイゼンシュタイン(モーリス・カルノフスキー)はサンフランシスコで画廊を共同経営している。二人ともドイツ出身だが、マーティンが家族とともにドイツに帰国し、ドイツで美術品を買い付け、マックスが画廊で売るという経営にすることになった。マックスにはグリゼルという娘(K・T・スティーヴンス)、マーティンにはハインリッヒという息子(ペーター・ファン・アイク)がおり、お互い結婚を真剣に考える仲だった。だが、グリゼルはドイツで女優を目指す夢を諦めきれず、マーティンの家族とともにドイツに渡ることになる。ハインリッヒはサンフランシスコに残ってマックスと画廊の経営にあたる。マーティンの渡独後、二人は手紙のやり取りを通して近況を伝え合っていた。マーティンは地元の名士、バロン・ヴォン・フライシェ(カール・エスモンド)と知り合いになり、ドイツ人としての愛国心に目覚め始める。そして、手紙の内容もユダヤ人であるマックスに対して高圧的になり、さらには彼を疎んじるようになり、最後には手紙も送ってくるな、と返信してきた。その頃、ベルリンの舞台で主演女優を勝ち取ったグリゼルはナチスによる検閲行為に反抗したために追われる身となる。
Quote
ハイル・ヒトラー!今日は残念な知らせがある。君の娘は死んだ。
マーティン
Production
原作「Address Unknown」
原作者のキャサリン・クレスマン・テイラー(1903 – 1996)はオレゴン州ポートランド出身、オレゴン大学を卒業後、サンフランシスコで広告のコピーライターとして働くかたわら、著作活動に専念していた。1928年にエリオット・テイラーと結婚、大恐慌の時代はオレゴン州で自給自足に近い生活をしながら3人の子供を育てていた。1938年にニューヨークに移り、そこで「Address Unknown」を書き上げる。
この小説は、往復書簡だけで成り立っている、いわゆる「書簡形式」の小説だ。キャサリン・クレスマン・テイラーが着想を得たのはある2つの出来事だった。
一つの話は彼女のドイツ人の知り合いの話である。戦前アメリカに住んでいた彼らはドイツに帰国直後に熱心なナチスになってしまったという。彼らがカリフォルニアに旅行で訪れたとき、道でかつての友人と出会った。だが、ナチスとなったドイツ人はこの友人に背を向けて立ち去った。この友人はユダヤ人だったのである。
もう一つの話は、新聞に載った小さな記事だという。アメリカの大学生がナチス政権下のドイツの大学に留学した。アメリカにいる彼の悪友達は、ヒトラーのことをからかった手紙をこの留学生に送ったら面白いだろうと考えついたのである。手紙を受け取った留学生は「止めてくれ、危険すぎる。この国を甘く見てはいけない。変な手紙を送りつけるだけでナチスを一人殺すことができるんだ。」と返信してきたという。
この話はおそらく1938年にAP通信が報じたウィリアム・T・シャーウッドの話であろう。彼はニューヨークの大学の学生で、当時ミュンヘン大学に留学していたが、彼の友人達が「ヒトラーを射殺する計画頑張って」と書いた手紙や、50ドルの小切手と「武器と追加の金は後で送る」というメッセージを送ってきたところ、手紙を検閲していたドイツの秘密警察に尋問されたという。当時の新聞は「ナチスはジョークがわからない」といった小咄として報じていた。
小説「Address Unknown」を『ストーリー』誌の編集長ウィット・バーネットが気に入り1938年9月に掲載した。バーネットとキャサリンの夫エリオットは、この作品の著者が女性の名前で出ると「強烈すぎるだろう」と警戒し、「クレスマン・テイラー」の名前で出版することにした。小説はたちまち話題になり、該当号はわずか10日で売り切れてしまう。熱心な読者のなかには、雑誌を謄写刷りして仲間に配っていた者もいたという。『リーダーズ・ダイジェスト』は<フィクションは掲載しない>というルールを破って、1939年1月号に転載したほどだ。1939年にこの中編は単行本として出版され、5万部を売った。
ニューヨーク・タイムズの文芸批評家、チャールズ・プーアは「かつて友人だった二人がナチズムの毒に襲われ、暴力に満ちたカタストロフィを迎えるこの話を読んで、心を揺さぶられない人はいないだろう」と賛辞を送った。
ウィリアム・キャメロン・メンジーズ
ウィリアム・キャメロン・メンジーズ(1896-1957)は、サイレント映画時代からハリウッドの数々の重要作品で<美術監督><共同監督><共同製作><セット>など様々な肩書で関わってきたアーティストである。しかし、例えばアカデミー美術賞について言えば、彼は第1回に受賞したきりで、その後は受賞していない。1940年には『風と共に去りぬ(Gone With the Wind, 1939)』における<貢献>に対して名誉賞が送られているが、アカデミーは「カラーの使用に貢献した」「雰囲気作りに貢献した」という曖昧な表現でごまかしている。
『ヴァージニア・ウルフなんて怖くない(Who’s Afraid of Virginia Woolf?, 1966)』でアカデミー美術賞、『卒業(The Graduate, 1967)』、『ローズマリーの赤ちゃん(Rosemary’s Baby, 1968)』などの美術を手掛けたリチャード・シルバートは、メンジースの弟子だ。彼はメンジースは「自分の仕事をしたかっただけさ」という。シルバートの言を借りれば、エリア・カザンのように俳優と深く関わる映画監督は「ナラティブを感情のダイナミクスで表現する」のに対して、メンジースは「ナラティブを視覚的ダイナミクスで表現する」アーティストだ。メンジースと関わりの深いサム・ウッド監督にいたっては「カメラをどこに置いたらいいのか、わからないありさまだった」という。ウッドが困っているあいだに、メンジースがセットに合わせてカメラの位置を指示したと言われている。
しかし、メンジースはその<貢献>のわりにクレジットが曖昧としている。MGMで長年君臨した美術監督セドリック・ギボンズは、MGMのほぼすべての作品に美術監督としてクレジットされ、アカデミー賞を山のように受賞しているが、実際には口ばっかりで「何もしていない」のは有名だった。1940年に心臓発作を起こして以来、ほとんどスタジオに来ることはなかったにも関わらず、さらにアカデミー賞を2回も受賞している。こういった<クレジット泥棒>がハリウッドのスタジオ時代には数多くいた。シルバートは『風と共に去りぬ』でも「偽物」のライル・ウィーラーがクレジットされアカデミー賞を受賞したと辛辣だ。
『風と共に去りぬ』でメンジースのストーリー・ボードによる映画の構成方法に感心したサム・ウッドは、彼が監督する作品には必ずメンジースに声をかけるようになった。『悪魔とミス・ジョーンズ(The Devil and Miss Jones, 1941)』、『嵐の青春(Kings Row, 1942)』、『打撃王(The Pride of the Yankees, 1942)』、そして『誰がために鐘は鳴る(For Whom the Bell Tolls, 1943)』で「Production Designer」のクレジットで参加している。『打撃王』のオープニングでは、監督のサム・ウッドの下にメンジースが並んでクレジットされている。ウッドがいかにメンジースの貢献を高く買っていたかが分かる。
サム・ウッドは娘のK・T・スティーヴンスが主演するための作品を探していた。MGMやワーナーといったメジャースタジオでは、そのような身贔屓な振る舞いは許されないだろうが、コロンビアのハリー・コーンとなら取引ができると踏んだウッドは、年に1本のペースで製作・監督するという約束で娘のための作品製作を実現させた。題材は以前から目をつけていた「Address Unknown」だった。1943年5月29日のモーション・ピクチャー・ヘラルド紙が、サム・ウッドが映画化のために原作の権利を買い上げたと報じている。9月にはウィリアム・キャメロン・メンジースが監督することが決まり、ポール・ルーカス、モリス・カルノフスキーが出演することも報道された。このときの脚本はレスター・コールが担当だった。
レスター・コールの仕事
レスター・コールは後に共産党員として非米活動委員会に呼ばれブラックリストされたハリウッド・テンの一人だ。戦時中はパラマウントで低予算映画の脚本を執筆していたが、1943年にコロンビア・ピクチャーズで極めて特異な仕事をしている。一つは敗戦後のナチスを描く『誰も逃してはならない(None Shall Escape, 1944)』と、もう一つはこの『受取人不明』である。どちらも、戦争終結前にナチス占領下の土地で起きたユダヤ人の悲劇を扱っている。
連合国側はナチスのユダヤ人に対する人種政策(すなわち「ユダヤ人問題の最終的解決」)についてほとんど知らなかったというのが通説だった。しかし、UNのアーカイブの史料から連合国側はかなりユダヤ人強制収容所の実態について知っていたはずだということが近年わかってきている。戦後の西ドイツのアデナウアー政権は、アメリカのジョセフ・マッカーシーの後押しもあって、戦時中の戦争犯罪を隠蔽することに成功した。この経緯を考えると、『誰も逃してはならない』と『受取人不明』へのレスター・コールの関与は非常に重い意味を持っている。
ハリウッドのメジャー・スタジオのトップやプロデューサーにはユダヤ人も多い。それにも関わらず、戦時中、そして戦後さえも、ナチスのユダヤ人政策について言及する映画は決して多くない。これはいくつかの要因が絡んでいるが、ひとつには、ハリウッドで権力をもっていたユダヤ人たちは、自分たちのエスニシティを(少なくとも作品製作のプロセスにおいて)なるべく隠蔽しようとしていたという側面がある。自分たちがハリウッド政治的にも経済的にも恵まれた地位にいるだけに、ユダヤ人の受けた被害についてことさらにテーマにするのは一般市民から反感を買うと思ったようだ。それはとりもなおさず、一般市民のなかにユダヤ人に対して差別的な態度をとる人たちが多かったことの裏返しでもある。
そのような背景を踏まえたうえで、この2作品がハリー・コーンがトップをつとめるコロンビア・ピクチャーズから公開されたのは興味深い。『誰も逃してはならない』は、戦後に行われるであろうナチス高官の戦犯裁判、しかもユダヤ人虐殺に関わる罪に対する裁判を、戦時中に描いている、驚くべき作品だ。この映画の舞台はナチス占領下のポーランドで、貨車に乗せられて収容所に連れて行かれるユダヤ人たちが機銃掃射で虐殺されるシーンがあり、<ホロコースト>をフィルムに焼き付けたものとしてほぼ最初のものになるのではないだろうか。原作はドイツから亡命してきたジョセフ・サンとアルフレッド・ニューマン、監督は自身ナチスにプロパガンダ映画の撮影を強制されて亡命してきたハンガリー人アンドレ・ド・トスである。
レスター・コールが『受取人不明』の脚本担当になることは1943年9月末に発表されている。コールはキャサリン・クレスマン・テイラーの原作にいくつかの変更を加えている。ひとつは原作ではグリゼルはマックスの妹だったが、娘に変更した。これはウッドの娘のK・T・スティーヴンスを配役する上で必要だったのだろう。もう一点はその恋人としてハインリッヒを登場させたことだ。彼の存在によって、この物語が単なる復讐劇にとどまらず、父親殺しの物語も重なるものになった。脚本はハーバート・ダルマスが仕上げたことになっており、クレジットもダルマスだけになっている。
配役
トップでクレジットされているのは、ポール・ルーカス(1894 – 1971)。ブダペスト生まれのユダヤ人で、1927年にハリウッドに移って以来、ハリウッド映画に多数出演している。『受取人不明』の前年に『ラインの監視(Watch on the Rhine, 1943)』でアカデミー賞を受賞している。彼はハリウッドで赤狩りが行われたときに保守派について「アメリカの理想を守るための映画同盟」に名を連ねていた。
カール・エズモンド(1902 – 2004)は、ウィーン生まれの俳優で、ナチスの政権掌握とともに亡命、イギリスからハリウッドに渡った。
ペーター・ファン・アイク(1911 – 1969)は、ドイツ出身の俳優。ワイマール時代の彼とキャバレー歌手ジーン・ロスとの出会い、そして彼女とクリストファー・イシャーウッドとの関わりが、舞台・映画の原作『キャバレー』のインスピレーションとなった。ファン・アイク自身は1931年にベルリンを離れ、ロンドン、パリなどを転々とした後ハリウッドでトラックの運転手をしていた。ビリー・ワイルダーに拾われてハリウッドに出演するようになる。戦後は冷酷なナチスの将校役などが多い。
マディ・クリスチャンズ(1900 – 1951)はウィーン生まれで、マックス・ラインハルトの舞台でデビュー、エルンスト・ルビッチ、F・W・ムルナウ、テオドール・ドライヤーの作品にも出演、ワイマール期のドイツ映画界から登場した女優である。1933年に亡命を余儀なくされ、渡米した。ハリウッドとブロードウェイの両方で成功を収め、『ラインの監視』、『忘れじの面影(Letter from an Unknown Woman, 1948)』にも出演している。戦時中の亡命者援助活動やロシア支援活動がFBIによって<反米的>とみなされ、戦後捜査の対象となる。「レッド・チャンネルズ」に名前が掲載され、事実上ブラックリストされた。その数カ月後の1951年10月に脳溢血で死去するが、ブラックリストによるストレスが原因と言われる。
モリス・カノフスキー(1897 – 1992)はミズーリ生まれ、実に多彩な性格俳優である。グループ・シアターの創始者の一人で、1930年代の舞台演劇を牽引した。その頃に共産党に加入、戦後はやはり非米活動委員会の標的となり、エリア・カザンに名指しされてブラックリスト入りする。
この他にも、ヨーロッパから移住、亡命してきた俳優が数多く出演している。フランク・ライヒャー(1875 – 1965)、ルイ・V・アルコ(1899 – 1975)、アルノ・フレイ(1900 – 1961)、フレドリック。ギアマン(1902 – 1985)、スヴェン・ヒューゴ・ボルグ(1896 – 1981)、カール・エクバーグ(1903 – 1976)、ハンス・フュルベルグ(1906 – 1973)など、クレジットはされていないが、出演者の大半を亡命者が占める。
撮影
メンジースは撮影に入る前にストーリー・ボードを緻密に準備して、ほぼすべてのシーンのカットを綿密に決めている。800以上のスケッチをあらかじめ準備し、撮影監督のルドルフ・マテと打ち合わせて迷いのない演出を準備していた。1943年の11月22日に製作が開始され、翌年の1月13日に完成している。
最初に撮影されたのは、グリゼルの舞台デビューのシーンだ。<ラインハルト的な>舞台装置と照明・演出が際立ったシーンだが、特にチャールズ・ハルトンの登場シーンは強烈な印象を残す。オプティカル・プロセスを大胆に使用しており、『市民ケーン(Citizen Kane, 1941)』の影響がはっきりと見て取れる。この場面におけるハルトンの採用は巧みだ。誰もが『生きるべきか死ぬべきか(To Be Or Not To Be, 1941)』を連想するに違いない。
『受取人不明』は全体を通して、ナチスのシンボル(鉤十字)がほとんど使用されていない。メンジースは鉤十字があまりに濫用されすぎてビジュアルとして陳腐になってしまったと考えていたという。特にグリゼルがベルリンの夜の裏通りを逃げるシーンでは、ナチスの腕章をいかに<映さないか>を検討している。マテとメンジースは俳優たちにランタンをもたせて暗い道に立たせ、ギラつく光で腕章を見えにくくした。その他にもこの作品では視覚的に<ナチス>とすぐに認識できるものを極力排除している。ナチス式敬礼やナチスの将校たちの制服姿、兵士の姿などは皆無に等しい。それよりも遠近法を破綻寸前まで強調した構図や、中間色のグレーよりも容赦ない白と黒を配置した画面が、この作品における<ファシズム>を表現する要素となった。
プレビューでの観客の反応をもとに、メンジースはバロン・ヴォン・フライシェ(カール・エスモンド)の役を拡張した。リテイクは1月中に終了した。
Reception
業界での当初の反応は極めてポジティブだった。まず、アカデミー賞を受賞したばかりのポール・ルーカスの演技に注目が集まった。
アカデミー賞を受賞をしたポール・ルーカスがここでもまた素晴らしい役を演じ、彼の完璧な人格表現のコレクションに新たな作品を加え、役者としてのステータスは上がるばかりだ。これでまたアカデミー賞レースのトップに躍り出たと言ってもいいだろう。ウィリアム・キャメロン・メンジースは、プロダクション・デザイナーとして有名だが、ここでは製作・監督を担当、意図的に陰鬱な照明を駆使してドラマを盛り上げることに成功している。
Motion Picture Daily
人気の原作を意識した評も見られる。
映画は原作の小説に劣らず緊張感に満ちたドラマとなっており、原作のファンも、そして増えつつあるポール・ルーカスのファンも、この映画を見に来るだろう。
Motion Picture Herald
だが、原作が中編の極めてコンパクトな作品だったことや、ナチスが政権を掌握した直後を舞台としていたこともあって、1944年というタイミングには合わないと見る向きもあった。
映画はあの原作をテンポののろい、もったいぶった話にしてしまい、原作の強度はすっかり欠いている。原作も10年も前ならまだ話題性もあったが、さすがにこの話は古臭く感じてしまう。
Variety
公開はコロンビアの二本立てで『ジャム・セッション(Jam Session, 1944)』が添え物だった。業界紙や新聞での評は悪くなかったのだが、興行は芳しくなく、すぐにインディペンデント・サーキットに落ちてしまった。また、24時間興行にも回されている。Motion Picture Heraldに寄せられた映画館主からの反応をみると、地方での興行は惨憺たる結果だったようだ。
小さい町の映画館向けではない。客のコメントはかなり厳しいものだった。不入り。
クレオ・マンリー、ブエナ・ヴィスタ劇場、ブエナ・ヴィスタ、ジョージア
『受取人不明』はハリウッドが戦時中にナチズムをいかに描いていたかという視点から議論されることが多い。ボブ・ヘルツバーグは、特にベルリンの劇場で起こった暴動のシーンを取り上げ、ホラー映画の演出と比較している。
(グリゼルが)自分のユダヤ系の名前を変えた理由を説明しようとするが彼女はユダヤ人を憎悪する暴徒たちに妨害される。ルドルフ・マテのカメラはこの憎悪に満ちた観客たちの醜い怒りに満ちた顔に焦点を合わせている。注目すべきは、この男たちがナチスの制服や鉤十字の腕章を身に着けていない点だ。そしてこの男たちはこの若い女性を追って夜のベルリンの街中を走り回る。実際、メンジースとマテはこの悪夢の現実を政治的、国家的忠誠に言及することなく描いている。これはナチスがユダヤ人を追いかけているのではなく、この男たちはホラー映画から登場してきたグロテスクな怪物で、関係ない無実の女性を追い回しているのだ。最悪の悪夢に出てくる殺人鬼のように恐ろしく、血に飢えていて、誰も止めることができないのだ。
ボブ・ヘルツバーグ
戦時中の映画について分析したバーナード・F・ディックは、『受取人不明』に描かれているナチスの<倫理の不在>について論じている。その好例として、シュルツを洗脳するバロン・ヴォン・フライシェとアドルフ・ヒトラーのレトリックの類似に関する指摘は極めて興味深い。ドイツの<亡命文化人>の一人、ルドルフ・オルデンのヒトラーのレトリック分析を引きながら、ヒトラーの「歪んだ表現、はなはだしい矛盾、マラプロピズム」にみられる言語への侮辱が、ヴォン・フライシェのセリフにも見事に反映されていると述べる。
『受取人不明』では、ベルサイユ条約のあとドイツを取り巻いた「絶望の分厚い帯」が「古い外套のように投げ捨てられ」て、「未来が私達に向かって圧倒する波のようにやってくる」という。包囲、衣服、自然のイメージ──どれも不適切で、すべて陳腐な表現──がお互いせめぎ合って第三帝国を表現しようとしている。この貧しい修辞の根源は幼児性にほかならない。何も考えないで言葉をつなぎ、ずれた組み合わせになってしまっても平気なのは、言語の使い方が未成熟であることをうかがわせる。その響きが心地よいから、イメージがいいから、と言葉を繰り返す。このような無知な修辞に絡めとられて、マーティンはナチズムに転向するのだ。
バーナード・F・ディック
映画史家でD・W・グリフィス、クリント・イーストウッド、ウッディ・アレンなどの伝記を数多く執筆したリチャード・シッケルは、著書「Good Morning, Mr. Zip Zip Zip: Movies, Memory and World War II (2003)」のなかで、『誰も逃してはならない』と『受取人不明』を論じ、アメリカの民衆のあいだに潜んでいたユダヤ人差別について自らの体験を踏まえて記している。
ある晩私がドロシー・ラムーアと彼女の「サロング」について熱く語っていたら、私の父が突然彼女がユダヤ人なのを知っているのかと聞いてきた。もちろん、知らなかった。父は映画のビジネスはユダヤ人が牛耳っている、ラジオもそうだと言った。私の祖父は自分の同僚を「善良なユダヤ人」と呼んでいた。当時、アメリカ中にあるショアウッドのようなユダヤ人のコミュニティは「カイクズ・ピーク」と呼ばれていた。
リチャード・シッケル
シッケルは『受取人不明』が(当時知られている限りの)ナチスのユダヤ人迫害の歴史を思い起こさせる役割を担った唯一の作品であると評価している。
確かに絶滅収容所は描かれてはいてはいないが、ハリウッド作品においては唯一、一瞬ではあるものの水晶の夜を描き、ユダヤ人がその後どんな運命をたどったを想像させるものとなっている。
リチャード・シッケル
Analysis
フィルム・ノワールとはなにか
フィルム・ノワールの定義は年々曖昧になっている。かつては『マルタの鷹(Maltese Falcon, 1941)』から『黒い罠(Touch of Evil, 1958)』のあいだに製作された数十本の作品を指していたのだが、あれもこれもフィルム・ノワールと呼ばれるようになり、IMDBではジョセフ・フォン・スタンバーグの『暗黒街(Underworld, 1927)』にまでさかのぼって「film-noir」というジャンルタグが付されている。ちなみに、IMDBでは『受取人不明』に「film-noir」のタグは付されていない。
一方、この作品はTCMのフィルム・ノワール特集のブルーレイ・セット(「Noir Archive 9-Film Collection: Volume 1: 1944-1954」)に収められた。このブルーレイ・セットに収められた他の作品を見ていただければ分かるのだが、『霧の中の逃走 (Escape in the Fog, 1945)』や『ジョニー・アレグロ(Johnny Allegro, 1949)』のように1990年代には他ジャンルに分類される方が適切と考えられていたものもある。数十年に渡ってフィルム・ノワールが繰り返し議論され批評された結果、もっと他の作品を掘り出したいという映画ファンの欲求とそれに呼応した供給側の目論見がうまく重なったとも言える。少しでも言い訳ができそうな作品に、ファンが飛びつく「フィルム・ノワール」のタイトルを貼り付けて、再ブランド化して売り出せば売れるのである。この『受取人不明』がフィルム・ノワールとして分類してよいのかどうか以前に、ブルーレイとして流通していることのほうがファンにとっても供給元にとっても喜ばしいことだ、ぐらいの意味合いしかない。
私が『受取人不明』をここで取り上げたのは、フィルム・ノワールとして分類されるべきかどうかという議論よりも、この作品が、少なくとも他のフィルム・ノワール作品を考えるうえで多くの示唆的な映像へのアプローチを含んでいるからである。つまり<モラルの揺らぎを表現するために映像の可能性を最大限に追求する>という挑戦に、この作品は真正面から取り組んだ数少ない作品のひとつだと思う。具体的には二人の人物のモラルの揺らぎ、ナチスに染まってしまうマーティン・シュルツと、その父親を追い詰めていく息子ハインリッヒ・シュルツの物語についてである。
マーティンは、グリゼルの殺害において直接手を下したわけではないが、自分以外の誰かが必ず彼女を殺すことを知っていた。グリゼルが殺されることを願っていたかというと、必ずしもそうではない。それよりも彼の場合は自分の保身が大事だった。
ハインリッヒは、マーティンの殺害において直接手を下したわけではないが、自分以外の誰かが必ず彼を殺すことを知っていた。そしてハインリッヒはマーティンが殺されることを願っていた。
1940年代のハリウッド映画では、殺意をもって殺害を引き起こす登場人物は報いを受けなければならないのが定石だった。たとえそれが<復讐>であっても、である。ハインリッヒはフィアンセを見殺しにされた復讐として、自分の父親であるマーティンに暗号の手紙を送る。これをPCAが見逃したのは極めて興味深い。なぜなら、プロダクション・コードは、現代における<復讐>について「正当化されてはならない」と明確に規定しているからだ。
西部劇でも歴史劇でもないこの作品がなぜ<復讐>の描写を許されたのか。それがフィルム・ノワールを生んだ時代に暗く流れるモラルの揺らぎについて解く鍵だ。そのためにもまずプロダクション・コード・アドミニストレーション(PCA)とジョセフ・I・ブリーンについて考えてみたい。
プロダクション・コードとナチス
PCAのトップをながらくつとめていたジョセフ・I・ブリーンについて、彼は強硬なカトリックで「反ユダヤ主義者」だったという批判が1990年代に起こった。フランク・ウォルシュはその著書「Sin and Censorship」のなかで、ブリーンがハリウッドのスタジオのトップたちを「ユダヤ人ども」と呼んでいたことや、ユダヤ人に対する差別的な用語を私的な書簡のなかで使用していたことを挙げている。これは1930年代初頭、プロダクション・コードに業界内拘束力がなく、特にワーナー・ブラザーズなどがギャング映画などを通じてアメリカ社会のモラルのありようを批判する作品を発表していた頃のことである。ブリーンのワーナー・ブラザーズに対する風当たりは強く、ワーナーのセールス・マネージャーのことを「もっとも下品なユダ公」とまで罵っている。当時、アメリカ国内のカトリック教徒にはこのようなあからさまなユダヤ人差別を隠さない者も少なくなかった。
しかし、ブリーンは、その後1930年代後半にユダヤ人に対する態度を急速に変えていく。これは欧州におけるナチスの台頭が引き金になった。トーマス・ドハーティが著書「Hollywood’s Censor」のなかでその経緯を追っている。
ナチスのドイツ政権掌握当時のローマ教皇ピウス11世はナチスとの対立関係を明確にしていた。さらに反ユダヤ主義をも批判した。これに呼応するように、アメリカのカトリック教会もナチスの人種政策に抗議するパンフレットを配布していた。ブリーンはこれらのカトリックの反ナチス運動に強い影響を受けたようだ。1938年11月にナチス・ドイツで「水晶の夜」事件が起きるとハリウッドは明確に反ナチスの態度を表明するようになり、ブリーンはそのなかでも常に見える形で運動に参加していた。彼はワーナー・ブラザーズのブライアン・フォイ、MGMのジェームズ・K・マクギネス、そして俳優のアイリーン・ダン、ドン・アマチら、ハリウッドのカトリック有名人たちと組んで反ナチスの啓蒙活動をおこなっていた。
チャールズ・チャップリンの『独裁者(The Great Dictator, 1940)』は、アメリカがまだ第二次世界大戦に参戦する前に(すなわちまだ体裁上は中立国の地位をかろうじて維持していたときに)ナチス・ドイツを敵に回すような作品として批判も受けた。しかし、ブリーンはこの映画を絶賛し、PCAからの要望を伝えるときも「こんな瑣末事でチャップリン氏を煩わすのは本望ではないのだが」と極めて低姿勢だった。戦時中、反ナチスの運動を苦々しく思っていた一部の保守派が、戦争が終わると同時に非米活動委員会の活動を推進し始めるが、ブリーンを含むPCAの関係者は召喚されていない。ハリウッド公開映画のシナリオ全てに目を通し、映画の社会的側面についてありとあらゆる形で介入していたPCAに対して、非米活動委員会がこのように及び腰だったのは、不可解といえば不可解である。
しかし、一方で前述のようにハリウッドのメジャースタジオでは、ユダヤ人がトップにいるにも関わらず、ヨーロッパでのユダヤ人の悲劇を題材として取り上げることには戦前から戦時中にかけて極めて消極的だった。これは、前述のリチャード・シッケルの記述にあるようなアメリカ国内の差別の土壌が大きく関わっている。ジョージア州の小さな劇場で「かなり厳しい」コメントが見られたのは決しておかしな話ではない。『受取人不明』はこのような状況下で製作された。
この作品の根本にあるのは、「生の倫理の不在とどう戦うか」という問いである。この地上には極めて邪悪なものが存在するし、場合によってはそれが権力をもつ場合もある。それを倒すためには同じくらい邪悪な方法に訴えないと難しいかもしれない。以前、『武装市街(Union Station, 1950)』の分析のなかで『老兵は死なず(The Life and Death of Colonel Blimp, 1943)』を挙げて、その倫理的転回について論じた。これは真珠湾攻撃の前に製作された『ヨーク軍曹(Sergeant York, 1941)』のテーマである<信仰>と<義務>の相反よりさらに深刻だ。例えば「人命を救うためには拷問をしても構わないか」という問いを用意したのが、第二次世界大戦である。フィルム・ノワールと呼ばれる多くの作品は、このような問いをどこかに秘めていると言っても過言ではない。自分からすべてを奪い去った男女を死に追いやる(『スカーレット・ストリート(Scarlet Street, 1945)』)、法を欺こうとした人間を電話一本で死刑にする(『条理ある疑いの彼方に(Beyond a Reasonable Doubt, 1956)』)、街を恐怖に陥れるギャングを自らの手で成敗する(『無警察地帯(The Phoenix City Story, 1955)』)、犯罪者を電気椅子送りにするために裏切りを強要しつつも命の保証はしない警察(『死の接吻(Kiss of Death, 1947)』)など、それぞれの映画のテーマのなかにこの問題は浮き上がっている。そのテーマをファシズムと直結した問いとして提示しているのが『受取人不明』である。
遠近法と陰影
では、『受取人不明』はその問いを物語としていかに語ったか。
まず、マーティンの変容をいかに描いているだろうか。サンフランシスコのオープニングから一貫して、マーティンは決して強い意思の持ち主として描かれてはいない。彼は感情的にも思想的にも常に受動的であり、自分の考えを検証するという様子が見られない。彼の変化を進行させる触媒となるのは、もちろんナチスに心酔しているバロン・ヴォン・フライシェである。彼とシュミット教授(フランク・ライヒャー)と3人でドイツの政治状況について会話をする場面は、マーティンの変容を観察できるシーンだ。ここでマーティン役のポール・ルーカスの演技が重要な役割を果たしている。シュミット教授が、ヴォン・フライシェの陶酔的なレトリックに極めて冷淡な反応を示すと、マーティンは困ったような顔をする。さらにヴォン・フライシェのヒトラー支持の意見に対して、シュミット教授が反対の意思表明をすると、マーティンはイライラした一瞥をシュミット教授に投げかける。この視線の変貌によってマーティンとシュミット教授の距離が開いていくのが明らかになる。さらに、この3人の会話におけるマーティンをとらえる構図とヴォン・フライシェをとらえる構図との違いに注目したい。マーティンはヴォン・フライシェとシュミットの間に挟まれて窮屈に見えるが、ヴォン・フライシェは彼一人がフレームを占領していて誰からも圧迫されない人物に見える。マーティンの動機はあくまで目の前にいるヴォン・フライシェに気に入ってもらいたいというものでしかないことが、視線と構図で強化されていく。
マーティンはマックスがユダヤ人であることを理由に手紙を受け取ることを拒否し絶交する。マックスは真意を確かめようと友人のジミーに手紙を託す。ジミーがマーティンのオフィスを訪れるときの構図───パロディかと思われるほど強烈な一点透視のパースペクティヴ、天井の威圧的な平行線、画面奥の壁のまえに堂々と立っているマーティン───は、そのままナチズムに対する揶揄と考えてもよいだろう。自分たちを支配民族と考える傲慢さをうぬぼれた遠近法で見せているのである。だが、彼がヴォン・フライシェの信用を失い、失墜していくときは透視図の構図を失い、強い陰影の奥行きを失った世界に閉じ込められていく。
対照的に、マックスは物語全体を通して変わることはない。彼はマーティンの変貌をうまく理解できず、自分の娘の死に関しても悲嘆にくれるものの、怒りや復讐心とは無縁のようだ。グリゼルの死を契機に、マックスは画廊の強調された一点透視のパースペクティヴのなかで描かれるようになる。このパースペクティヴでマックスは常に奥で背中をこちらに向けて立ち尽くす。画面奥は全面ガラス張りのストアフロント、明るい表通りが映る。一点透視のパースペクティヴでも外部からの採光があるために、マーティンの場合と違って若干柔らかい陰影の中で孤独と絶望が浮き彫りになっている。
ギャラリーにおけるこの構図は主要な場面で二回登場する。一回目はマックスがグリゼルの死の知らせを受け取ったとき、もう一回はラストシーンでやはりマックスが「受取人不明」のスタンプを押された手紙を受け取ったときだ。どちらもハインリッヒはフレームの外、一番手前にいる。マックスが不幸な知らせを受け取ったとき、ハインリッヒはマックスに駆け寄る。カメラは切り替えされ、画面奥からマックスに近づくハインリッヒが映し出される。問題は二回目だ。マックスはなぜ手紙が返送されてきたのかわからない。自分は手紙を送っていないからだ。マックスはストアフロントの光をたよりに手紙を見ている。そして手前にハインリッヒが現れる。マーティンとハインリッヒの間の無言の切り返しが繰り返され、マーティンが何が起きたのかを一瞬にして悟る。ハインリッヒは無言のまま、半分影の中に無表情で立ち尽くしている。
この物語のなかではマックスは、最後まで、遠い土地で娘を失う無力なアメリカ人として描かれている。それに対して変貌を遂げるのはハインリッヒだ。彼は無意味な暗号をマーティンに送り続け、マーティンを破滅に追い込む。
ハインリッヒの倫理的な問題は二点ある。一つは、冷酷な行いをした人物を(自ら手を下すことなく)破滅に追いやってもよいかという点。もう一点はそれを自分の名前でなくマーティンの名でやってもよいのかという点である。無意味な暗号だらけの手紙はマーティン名義で送っていたからだ。
このラストシーンを考える上で参考にしたいのが『打撃王(The Pride of the Yankees, 1942)』だ。ヤンキースの名プレーヤー、ルー・ゲーリックの生涯を綴った伝記ものだが、彼がALSに侵されて引退するところでこの映画は終わる。ラストシーンでは、難病に侵されていることは発表せずに、ゲーリックは影に覆われてフィールドを去る。この最後の構図はメンジースによるものだろう。サム・ウッドが監督だが、視覚的なストーリーボードはメンジースが担当しているからだ。この「影に覆われる男」というモチーフが、<周囲とは分かち合えない隔たり>を示唆するものだとすれば、『受取人不明』のラストもそのモチーフを共有していると言えないだろうか。ハインリッヒが抱える倫理的な問いは、ハインリッヒだけのものであって、たとえマックスといえども(あるいはマックスだからこそ)分かち合うことができない。
フィルム・ノワールと呼ばれる作品群が産まれた時代には、ファシズムの登場を背景に「非人道的な共同体を倒すために非人道的な手段を用いてもよいか」という問いが幾度も浮かび上がっていたことは再度強調しておきたい。そして、アメリカは<国家>として「非人道的な手段を用いても構わない」という結論を出した。それは原爆の使用という極めて明快な形で宣言され、いまなお今日も様々な場面で継続されている。一方、フィルム・ノワールの作品は、その倫理的な問いを個人の経験に投影して、曖昧さを孕んだ物語を編み出してきた。
『受取人不明』はまさしくその曖昧さを映像化した作品であり、1940年代から50年代のフィルム・ノワールを考える上で欠かせない作品であろう。
Links
ジャクリーン・T・リンチの「Another Old Movie Blog」では、マーティンの変容を追いながら、その異様さを指摘している。マーティンは(そして観客も)暗号の手紙を送っているのはマックスだと思い、息子のハインリッヒに手紙を書く。「息子なんだから、とにかくどんな手を使ってでもやめさせろ。」
これは興味深いセリフだ。たぶんマーティンはハインリッヒにマックスを殺すべきだと言っているのだろう。お前は私の息子だ。ファシズムは究極の忠誠を要求する。
Acobas.netに原作の「Address Unknown」が掲載されている。日本語訳は「届かなかった手紙(クレスマン・テイラー著、北代美和子訳)」として文藝春秋社から発売されていた。
また原作をフランク・ダンロップが脚色し舞台化している。日本ではunratoが舞台化している。
Data
コロンビア・ピクチャーズ配給 6/1/1944公開
B&W 1.37:1
72分
製作 | ウィリアム・キャメロン・メンジース William Cameron Menzies | 出演 | ポール・ルーカス Paul Lukas |
監督 | ウィリアム・キャメロン・メンジース William Cameron Menzies | カール・エズモンド Carl Esmond |
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脚本 | ハーバート・ダルマス Herbert Dalmas | ペーター・ファン・アイク Peter van Eyck |
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原作 | クレスマン・テイラー Kressmann Taylor | マディ・クリスチャンズ Mady Christians |
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撮影 | ルドルフ・マテ Rudolph Maté | モリス・カルノフスキー Morris Carnovsky |
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編集 | アル・クラーク Al Clark | K・T・スティーヴンス K.T. Stevens |
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音楽 | エルンスト・トッホ Ernst Toch |
References
[1] L. Cole, Hollywood Red: The Autobiography of Lester Cole. Palo Alto, Calif. : Ramparts Press, 1981.
[2] T. Doherty, Pre-Code Hollywood: Sex, Immorality, and Insurrection in American Cinema, 1930–1934. Columbia University Press, 1AD, p. 400 Pages.
[3] T. Doherty, Hollywood’s Censor: Joseph I. Breen and the Production Code Administration. Columbia University Press, 2009.
[4] T. Doherty, Projections of War. Columbia University Press, 1999.
[5] F. Walsh, Sin and Censorship: The Catholic Church and the Motion Picture Industry, 1st ed edition. New Haven: Yale University Press, 1996.
[6] “‘None Shall Escape,’ Hollywood’s First Holocaust Film, All But Unknown for 70 Years, Rediscovered,” Tablet Magazine, Nov. 01, 2016.