Detour

PRC
1945
私はヨーロッパでムルナウやフリッツ・ラングと映画を作ったり、
『カリガリ博士(1919)』のセットをデザインしたりしたんだ

――― エドガー・G・ウルマー
映画史上、最大の嘘つき 
――― ロッテ・アイスナー、ウルマーを評して

 

Synopsis

草臥れた服に型くずれしてしまった帽子、無精髭の男が、ハイウェイ沿いのダイナーでコーヒーを啜っている。男の名はアル・ロバーツ(トム・ニール)、グリニッジ・ヴィレッジのナイトクラブのピアニストだが、今は人生の終わりを待っている。ロバーツはその昔、スー(クラウディア・ドレイク)という歌手と恋に落ちていた。そのスーとの別れ、アメリカ横断の旅、ハスケルとの出会い、事故、そして更に彼を地獄の底の底に突き落としたヴェラ(アン・サヴェージ)という女。ロバーツはその悪夢の連続を回想する。

 

Quotes

運命なのか、それともなにか未知の力、そいつは、特に何の理由もなく、俺やお前の正体を暴き立てるんだ。
アル・ロバーツ(トム・ニール)

Production

原作と脚本

原作はマーティン・ゴールドスミスが1939年に発表した同名の小説である。ゴールドスミスはこの小説を書くために、奇妙な副業をした。ニューヨークからロサンゼルスまで旅行したい客を募り、自分のビュイックの後部座席に一人25ドルの料金で乗せ、自ら運転してアメリカ大陸を横断したのである。これで、執筆のための資金を稼いだと言われている。

1944年にゴールドスミスは映画化の権利をプロデューサーのレオン・フロムケスに売却したが、推定額は15,000ドルと言われている。翌年になって、ジョン・ガーフィルドがこの作品に興味を示し、映画化権をフロムケスから25,000ドルで買い取ろうとしているという噂が流れたが(配役としては、スーの役にアン・シェリダン、ヴェラの役にアイダ・ルピノの名が挙がっていた)、フロムケスは自分が製作することを目論んでいたため、売却しなかった。

フロムケスは、原作者のゴールドスミス本人に脚本化を依頼している。脚本化の経験がなかったゴールドスミスは、場面の描写を詳細に書き、そのまま撮影すると2時間以上になってしまうような大作を書き上げてしまう。配給可能な長さに収めるために、PRCの宣伝部のマーティン・ムーニーが呼び出され、彼のスキルを借りて全体的に書き直された。このオリジナルの脚本は、ヴェラを演じたアン・サヴェージが保管していたため、撮影用脚本と最終的な映像作品との関係や、書き込まれたサヴェージのメモから演出の状況を把握することができる(注1)。エドガー・ウルマーは原作を「ひどい出来」と言っていたが、脚本の多くのシーンはそのまま最終作品にも反映されている。

エドガー・G・ウルマー

『恐怖のまわり道』の監督、エドガー・G・ウルマー(1904 – 1972)は、ハリウッド映画史上、最も興味深い人物の一人であり、またドイツからの亡命者が果たした役割を考える上でも非常に重要な人物である。しかし、彼の生涯については謎が多く、かつ誤りや嘘も数多く伝えられていた。「カイエ・デュ・シネマ」でのインタビューやピーター・ボグダノヴィッチとのインタビューも、その正確さという点においては疑問符がついてしまう。まず、彼の生年についてさえ、ウルマー自身がコロコロと言うことを変えるために、ずっと混乱したままだった。

現在のチェコのオロモウツ出身、1904年9月17日生まれ。ウィーンで生まれたとか、1900年生まれとか、といった話はすべてウルマーの作り話である。ただ、生まれてすぐにウィーンに移り、レオポルドシュタットというユダヤ人街で育った。1920年代にマックス・ラインハルトの舞台でセット・デザインをしていたと言われるが、記録は残っていない。しかし、ラインハルトの1924年の舞台「奇跡(Das Mirakel)」に関わっていたことは確かで、ニューヨーク公演の際に劇団とともに渡米した。当時、ドイツでは演劇や視覚芸術を目指す者たちのあいだでは「マックス・ラインハルトのもとにいた」ということは、それだけで一目置かれる存在になり得た。そのことを考えると、ウルマーが、たとえ数多くいたスタッフのうちの一人であったとしても、ラインハルトの名を挙げるのは無理のないことかもしれない。

この「奇跡」の興行のあともウルマーはニューヨークに残り、ユダヤ演劇のスタッフとして働き始める。1924年にユニバーサルのカール・レムリがウルマーを雇ってハリウッドへの道がひらけた。このときのウルマーの肩書はセット・デザインのアシスタントだったようである。前年にやはりレムリがウィリアム・ワイラーを雇っており、この二人はサイレント期のユニバーサルで映画の基礎を習得していった。ワイラーは西部劇の短編映画をひたすら量産しており、ウルマーもそのアシスタント、あるいはBユニット監督のようなことをやっていたようだ。ボグダノヴィッチに「サイレント時代に西部劇の監督をしていた」と語っているが、クレジットは残っていないものの、あながち大法螺でもないようだ。1927年、ユニバーサルからフォックスに貸し出されたウルマーは、ロフス・グリーゼのもとでF・W・ムルナウ監督の『サンライズ(Sunrise, 1927)』のセット・デザインを担当することになる。この時の経験が後々まで彼の映画演出のスタイルを決定づけることになったようだ。そして、ドイツでロバート・シオドマクらと共同監督した『日曜日の人々(Menschen am Sontag, 1930)』で新しい潮流として注目され、ハリウッドに戻ってきてムルナウ監督の最後の作品『タブウ(Tabu, 1931)』でも美術を担当した。その後、ユニバーサルで『黒猫(The Black Cat, 1934)』を監督するなど徐々に地固めをしていたが、この時期にシャーリー・ベアトリス・カスラーと恋愛関係になる。問題はカスラーがマックス・アレキサンダーの妻であり、マックス・アレキサンダーは、カール・レムリの甥だったことである。結局、カスラーの離婚、そしてウルマーとの結婚で決着はつくが、ウルマーはハリウッドのメジャー・スタジオでは職が得られなくなってしまった。ブラックリストである。彼と妻はハリウッドを離れ、ニューヨークで、ユダヤ劇映画の演出、結核撲滅の教育映画などに関わりながら生計を立てていた。

1940年代にウルマーは、ハリウッドに舞い戻り、ポヴァティ・ロウでも最も低い位置にランクされる、プロデューサーズ・リリーシング・コーポレーション(PRC)で低予算の映画を量産し始める。

靴を足に合わせるんじゃないんだ。足を靴に合わせるんだ。まず、予算があって、予算に合わせて映画を撮るんだ。ジミー・ライドン、『奇妙な幻影(Strange Illusion, 1945)』の主演俳優

ウルマーのPRC時代のフィルモグラフィーは以下である。

1942年
Tomorrow We Live

1943年
My Son, the Hero
Girls in Chains
Isle of Forgotten Sins
Jive Junction

1944年
Bluebeard

1945年
Strange Illusion
Detour
Club Havana

1946年
Wife of Monte Cristo
Her Sister’s Secret

このうち、初期の作品(Tomorrow We Live, My Son the Hero, Girls in Chains)は30,000ドル以下の製作費、1週間以内の製作日数で製作されている。監督の給料はプレプロダクション、ポストプロダクション含めて1,000ドル。しかし、その後の作品については、製作費も増え、製作日数も2~3週間と少し増えてきている。

『恐怖のまわり道』は予算が87,579ドル75セント、実際には117,226ドル80セントの製作費がかかった。撮影日数はスタジオで14日、ロケーションで4日と記録されている。後年、ウルマーが語った「30,000ドル、6日」という製作環境はPRC時代の初期のことを指しているのかもしれない。とはいえ、それでもこの製作費は当時のハリウッドの標準から考えてもかなり低い(『日曜日の人々』で一緒だったロバート・シオドマクが監督した『らせん階段(The Spiral Staircase, 1946)』の製作費が750,000ドル、ビリー・ワイルダーが監督した『深夜の告白(Double Indemnity, 1944)』は927,262ドルだった)。

これより少し後にPRCで監督を始めるアンソニー・マンも経済的にも環境的にも恵まれない状況下で作品を撮っている。PRCはその後イーグル・ライオン・フィルムズとなり、低予算といえども強烈な印象を残すフィルム・ノワール作品の牙城となる。

ヘッド・トリップ

フィルム・ノワール、フィルム・シュノール、要はフィルム・チープだ。マーティン・ゴールドスミス

ゴールドスミスが書き上げた脚本はそのまま撮影すると2時間半にもなる大作だった。PRCの長編映画は、2本立て興行の添え物として企画されており、55分から70分に収めることが必須条件だった。そのために数多くの改変、削除が行われた。

ゴールドスミスの原作小説では、バイオリンの天才、アレキサンダー・ロスとそのガールフレンド、スーが主人公である。彼らが章ごとに語りを交代に進めていく。ところが映画では、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジに住むピアニスト、アル・ロバーツが主人公であり、すべての物語は彼の視点から語られる。スーの視点を持ち込むことなく、アルの歪んだ主観的世界を描写すること、それがウルマーの狙いだった。

ウルマーのヴィジョンは、放浪のロードムービーをヘッド・トリップに変容させることだった。エディ・ムラー

特に注目に値するのは、原作に見られたユダヤのエスニックな側面がすべて削られていることであろう。原作ではスーのエージェントがユダヤ人であること、さらにはアレキサンダー・ロスが「アーロン・ローゼンバーグ」というユダヤ人で、バイオリンの師匠の示唆で名前をユダヤ人とわからないものに変えていたこと、などが描かれている。ウルマー自身がユダヤ人であることや、長年ユダヤ劇の舞台や映画に関わってきたことを考えると、この変更は興味深い。

この「歪んだ主観的世界」を効率的に演出することに、ウルマーは力を注いでいる。アルはカリフォルニアの砂漠にあるダイナーで自らの運命について回想を始め、フラッシュバックがはじまる。このダイナーでは装飾らしいものはほとんどなく、徹底的にミニマルな(低予算な)作りになっている。ボイスオーバーに合わせて、アルの目にクローズアップで寄っていくと、目だけに照明が当たり、フラッシュバックが始まる。経済的でかつ印象的な導入部である。

演出の経済性は、映画全編を通して見られるが、それはクリシェに陥らないように的確に選ばれている。ノア・アイゼンバーグはその例として、アルとスーが夜のニューヨークを歩くシーンを挙げている。フォッグ・マシンとバック・プロジェクションで二人のショットを撮影し、そこにストック・フッテージやストリート・サインのショットを挟み込んでいく。そのあまりにミニマルなアプローチは、「セット・デザイナーが1週間の休暇をとったよう(デヴィッド・カラット)」でさえある。

登場人物たちのおかれた環境が高価なセットや衣装を要求しない代わりに、俳優たちはスクリーン上で不快に見える必要があった。アン・サヴェージは撮影の前、10日間髪の毛を洗わず、トム・ニールは無精髭を伸ばした。

娼婦か悪者か

このあまりにダウンビートな作品にジョセフ・ブリーンのPCAはいつもの通り注文をつけてきた。なかでもアン・サヴェージ演じるヴェラが「悪者だが、娼婦ではないことをハッキリと提示すること」を要求してきたことは、少し異様でさえある。さらにアルとヴェラがホテルに滞在する際も「夫婦として泊まらない」「もちろん、セックスを示唆をしてはならない」ことを要求している。しかし、ウルマー、そしてPRCはこれらの警告を最終的には無視している。ヴェラが娼婦かどうかは何も手がかりがなく、観る者の想像に委ねている。アルとヴェラは「ハスケル夫妻」としてホテルに滞在し、同じ部屋に寝泊まりし、そしてセックスに関しては観る者が十分に想像できる範囲で示唆している。二人は浴びるように安い酒を飲み続け、ハスケルの遺産詐欺を挟んで愛憎の関係にあるのは明らかである。

最もPCAが懸念したことは、アルが最後のシーンで逮捕されないで彷徨を続けることを示唆して終わることであった。

物語の最後でアレックスが警察によって逮捕されること ――― ハイウェイでヒッチハイクしているときにハイウェイ警察によって捕まること ――― は、絶対に必須である。最後のアレックスのセリフは、もし彼のしたことが明るみに出たら、法の裁きはいかなるものになるのだろうか、といった筋のものにすべきである。PCAのメモ

この映画の最終的に公開されたバージョンでは、これに近いエンディングになっている。ただ、セリフは文明社会の「法」ではなく、運命という別の「法」によって裁かれることについてのコメントになっているところが大きな相違である。『恐怖のまわり道』という作品が運命と(あやふやな)自我の摩擦について描いたものである以上、このセリフの扱いはPCAが思っていた以上にウルマーにとっては重要だったのだろう。

『まわり道』アン・サヴェージ、トム・ニール

Reception

1945年11月に公開、基本的には二本立ての併映作品として配給された。

業界紙の反応は概ね良い。

PRCが製作したもののなかでは最高傑作 Hollywood Reporter

 

『恐怖のまわり道』は、特に作品の低予算の経緯を考えると、いつものストーリーのパターンから大幅にかけ離れ、哲学的な扱い方が「飛び抜けている」と言わせしめるものになっている Motion Picture Daily

低予算の製作については但し書きがついてしまう。

『恐怖のまわり道』は佳作になる一歩手前で止まってしまっている。平板なエンディングと低予算が丸見えのせいである。 Variety

エンディングに関しては意見が分かれるようだ。

「ハッピー・エンド」の法則に妥協することなく、この映画には、皮肉でサスペンスに満ちたどんでん返しが数多くある Motion Picture Herald

ウルマーが亡くなった後、1970年代はピーター・ボグダノヴィッチやアンドリュー・サリスらによる好意的な批評が散発的に現れる程度であり、実際に彼の作品を目にする機会そのものが失われていった。それを変えたのが1983年のUCLAでのレトロスペクティブだった。「King of the Bs」と題された二ヶ月にわたるこのイベントで、ウルマーの作品が再度紹介され、『恐怖のまわり道』がフィルム・ノワールの傑作として不動の位置を確立する。この作品は、その後のフィルム・ノワールの批評、特に低予算作品の批評を加速させるきっかけとなったといっても過言ではないだろう。

『恐怖のまわり道』が強力に伝える、ラジカルな文化的貧困の印象こそが、この映画の意味である アンドリュー・ブリトン

特にアン・サヴェージ演じるヴェラは「ファム・ファタール」の典型例として、あるいはそれ以上の存在として、高い評価を受けている。

ヴェラを「男を去勢するビッチ」と呼ぶのは簡単であろう・・・だが、彼女の怒りは彼女のキャラクターに深く根ざすものであって、そういったもっともらしい呼び方をはるかに超えている リサ・モートン/ケント・アダムソン

アンドリュー・サリスは「B級映画のなかでも最も絶望的」と呼び、デイブ・カーは「ハリウッドが生んだ最も大胆で完膚なきまでに型破りな作品」と評した。ロジャー・イバートは「あまりにたくさんの不備がありすぎて、これでは映画学校で及第点を取れないだろう」としながらも次のように評している。

こういった制限やスタイルの逸脱はこの映画をダメにしているだろうか?いや、そんなことはない。こういったものがこの映画そのものなのだ。『恐怖のまわり道』は、題材が適切な形式を見つけ出す、良い例だと言えよう。ロジャー・イバート

映画そのものは著作権が切れたために、長いあいだ質の悪い16mmプリントが大量に市場に出回っていた。これが廉価版VHS、DVDのソースとなり、「B級映画」という言葉が醸し出す「低品質」「劣悪」をより印象づける結果となった。その後、ウェイド・ウィリアムズIII世という人物が、35mmのオリジナルカメラネガティブと原作の著作権を入手したという。画質の良いネガティブから起こした素材を市場に出しても、コピーされるのがオチなので(映画自体の著作権は入手できなかった)、手を付けず、むしろ原作からリメイクを製作した。主演にはトム・ニールの息子、トム・ニール・ジュニアを起用したりしたのだが、結局散々な結果に終わった。35mmのカメラネガティブはまだ日の目を見ていないと言われている(Image EntertainmentのDVDは、「ウィリアムズのナイトレート素材から起こした」とされているが、ネガティブではないのではないかと推測されている。)

Analysis

法螺吹き

「製作期間六日間、製作費二万ドル(吉田広明)」、「撮影は四日から一週間、製作費は原作の権利を含めて三万ドル(ヤニス・ツィオマキス)」、「最小限の製作費用で六日間の撮影、公開当時は無視された(アンドリュー・ブリトン)」 ――― エドガー・G・ウルマーという、映画好きなら興味を持たずにはいられない映画作家、そのウルマーの最も有名な作品にして、フィルム・ノワールの「傑作」、ハリウッドの最周縁で惨めな環境下で撮影されたにもかかわらず、いやむしろだからこそ「映画というもののでたらめな運動」の本質に迫っている、と称賛され続ける作品 ――― この作品に、向き合おうとすると、そのとたんに困惑することがある。様々な言説や、語られている言葉のどれを信用してよいのか、全く視界が悪くなってしまうのだ。特に2000年代半ばまでの、ウルマーの勇敢さと才能を称揚するために多くの批評家たちが書いてきた文章においては、その制御の効かなくなったロマンチシズムと「B級映画」への性質の悪い憧憬が、多様な解釈への入り口に立ちはだかってしまう。

過去の映画批評のなかには、「伝説を記事にする」精神から作家の神話性を優先したり、あるいは真偽の確かでない話を事実として記述したりするものが数多くある。特にエドガー・G・ウルマーに関しては、本人の虚言癖が事実の確認をより難しいものにしてしまっている。クリエーターには、自らの功績を誇張する者は多いが、ウルマーは宿題を忘れた小学生の嘘並みの底の抜けた嘘をつく癖がある。自分は『風と共に去りぬ(Gone With the Wind, 1939)』のアトランタの火事のシーンを撮影しただの、フェリーニの『甘い生活(La Dolce Vita, 1960)』の長いトラッキングショットを撮影したのは自分だ、だのと言った具合だ。これは、ハリウッドに亡命/移住した映画作家にはしばしば見られる傾向である。1930年のドイツで全く新しい試みとして登場した『日曜日の人々(Menschen am Sontag, 1930 )』に至っては、映画製作から長い年月を経て、関係者に行われたインタビューのあいだで話が大きく食い違ってしまっている。ロバート・シオドマク、エドガー・ウルマー、ビリー・ワイルダーはそれぞれ実際よりもはるかに貢献しているとうそぶいて、あたかも自分がリーダーだったかのごとく語っている。数十年経った後の記憶のあやふやで自己顕示欲だけは人一倍強い法螺吹き老人たちのうち、どの法螺吹き老人の話を信じるかで映画史上稀に見る美しい作品の成り立ちが全く違ってきてしまうのだ。

映画史は常に更新されている。過去の「名作」を指して「評価の定まった作品」と呼ぶことがあるが、本当に評価が固定されて動かない映画作品などない。むしろ実際に起きているのは、一部の映画批評家たちが自らの都合の良いように評価を固定し、言説を検証することなく繰り返し、レトリックを弄んでロマンチシズム溢れる映画「詩」を謳っている、という事態である。映画史が更新される以前、ウルマーが『カリガリ博士(Das Kabinett des Doktor Caligari, 1919)』『ゴーレム(Der Golem, 1920)』やムルナウの『最後の人(Der Letzte Mann, 1926)』に参加していたといった、あり得ない法螺を信じてしまった者もいたが、それは仕方がないとしても、そこから「ジョン・フォードの『四人の息子』にも関わっていたのではないかと思う(小松弘)」といった妄想を垂れ流していたのは害毒でしかなかった。『恐怖のまわり道』にまつわる批評は、その宝庫である。多くの批評が、「6日の撮影で30,000ドルの製作費」「2日で20,000ドル」「映画界の周縁」「B級映画のキング」といった枕詞で始まり「天才の作品」という賛辞で締めくくられる。「公開当時相手にもされなかった」というが、実際には前述のようにほぼすべての業界誌で取り上げられているし、PRCの配給網に乗って、かなり長い間興行のリストに載っていた(1947年には一部再配給もされている)。こういった事態はウルマー自身があるいは望んでいたのかもしれない。彼の様々な玉虫色の言説で、気取った連中を浮足立たせること、そして謎をなるべく多く残しておくこと、それは「語られる」ためには都合の良い仕掛けである。だが、今も映画史は更新され続けているのだから、そこに立脚しなければならない。

エドガー・G・ウルマー、そして『恐怖のまわり道』に関しては、2014年に出版されたノア・アイゼンバーグの伝記が、最も詳細で、かつ様々な資料にあたってより正確な事実や、その事実に忠実な見解を提示している。ここから見えてくるのは、常にハリウッドに焦がれながらも、その周辺に追いやられてしまう、確かに「運のない」男である。ウルマーは、若い頃にウィーンで、直接肌で感じたハイブロウな芸術に憧れながら、それをハリウッドという土地では成就できないジレンマを常に感じていた。しかし、一方で上昇志向が強く、功名心にはやる傾向がある。それが、彼の止めどない虚言癖にもなっていた。同時に家族思いの人物であり、経済的に困窮しつつも家族をバラバラにしないようにつなぎとめることに全力を尽くしている姿も垣間見える。

ウルマーの言っていることは、底の抜けたような法螺もあるが、だいたいが誇張である。『恐怖のまわり道』は30,000ドルで製作されたわけではなかったが、惨めな製作費であったことには変わりがない。むしろ、批評に必要な作業は、ウルマーという「B級映画のキング」にすべてを還元することではなく、当時の低予算映画の事情と、そのなかで生まれてきたスタイル、そしてそれを鑑みたときの『恐怖のまわり道』の特殊性であろう。

PRCのスタイル

プロデューサーズ・リリーシング・コーポレーション(PRC)は、1940年代のポヴァティ・ロウのなかでも最もチープで最もキッチュな低予算映画を量産した映画製作・配給会社である。ハリウッドの業界人のあいだでは、「PRCは腐ったゴミ(Pretty Rotten Crap)の略」と揶揄され、人気が去った俳優や監督が日々の糧を稼ぐ場所だった。ウィリアム・ボーディン、サム・ニューフィールド、ルー・ランダーズ、フィル・ローゼンといった監督が一週間程度の撮影期間で、4:1、ひどいときには2:1の生フィルムの供給(2:1とは完成作品のフィルム長の2倍の長さしか撮影用フィルムを割り当ててもらえないこと)で撮影にのぞんでいた。エドガー・ウルマーは、何十ものセットアップを一日で撮ってしまう「早撮り」が自慢だったが、PRCではそれはむしろ必須の技術だったようだ。PRCのスター監督、サム・ニューフィールド監督は140本もの映画を監督したが、彼があまりにもたくさん監督しすぎていることがバレるとまずいので偽名を使ったものもあるくらいである(この偽名は極秘だったためPRCの重役も「ピーター・スチュワート(ニューフィールドの偽名のひとつ)は大発見の才能だ」と称賛したという)。

ウルマーの『恐怖のまわり道』では、PRCの低予算の限界を様々な形で回避しながら、あるいはむしろそれを強みにしながら、アル・ロバーツの歪んだ認知の世界を描き出している。たとえば、映画前半でアルがスーと深夜のニューヨークを歩く場面で、フォッグ・マシンを多用することでセットの限界を見せず、またストリート表示の看板を適切な間隔で繰り返し見せることで空間の「概念的な」広がりを「物理的な」広がりに翻訳してみせた。さらに(これは怪我の功名の側面もあるかもしれないが)、バック・プロジェクションで車を運転するシーンでは、間違って組み合わさってしまったパズルのピースのような居心地の悪い非整合が、アルの輪郭が失われた記憶によるフラッシュバックの言いしれない「悪さ」を滲み出させている。セット撮影のミニマルな設計と、砂漠でのロケーション撮影の殺伐とした風景が、相似形をなしつつ対比されていく。取り留めのない悪夢を妄想する快楽が、「経済的な安っぽさ」といった事情を遥かに超えてセルロイドに写し取られた、稀有な例であることは間違いない。しかし、シネフィルたちを魅了してやまない、こういった熱病にうなされた絶望の映像が果たしてウルマーにのみ可能だったのだろうか。

PRC製作のフィルム・ノワール作品のうち、『殺人の弁明(Apology for Murder, 1945)』は、むしろその悪名高い由来ゆえにPRC作品の中では際立って優れている。『深夜の告白(Double Indemnity, 1944)』のほぼ丸写しであり(注2)、キーになるミゼンセーヌまで流用してい

る。皮肉なことに、それが故にブレのないナラティブで64分間のなかにアクションとサスペンスを十分に詰め込んだ、エンターテインメントとしては質の高いものに仕上がっている。

監督のサム・ニューフィールドは、低予算の限界を巧みに隠蔽しながら、『深夜の告白』に肉薄する淫靡な世界を描き出している。そのアプローチの一つが陰影の極端な使用である。例えば、ケニー(ヒュー・ビューモント)が自分のアパートで酒を用意する際、キッチンには全く照明を使わず、ケニーの輪郭だけが浮かび上がるようにして、かつキッチンの入口にトニ(アン・サヴェージ)を配して、奥行きのある構図を作り出している(別のシーンでは、これと同じ構図で、トニの代わりにケニーの上司のワードを配置して、『深夜の告白』にも見られたトニ/ケニー/ワードの三角関係を示唆している)。トニが別の男と抱擁している様子を戸外から覗き見るケニーもシルエットだけで浮かび上がらせ、経済的だが効果的に処理している。ニューフィールドは、クローズアップが少なく、ほとんどマスターショットで済ませてしまうことが多いが、ディテールの不在がこの作品では有利に働いている。

『殺人の弁明』
『殺人の弁明』

同じくサム・ニューフィールド監督の『淑女の告白(The Lady Confesses, 1945)』は、ナイトクラブを中心にしたミステリだが、クローディア・ドレイクの歌のシーンやナイトクラブの裏側などを1930年代で使い古されたモチーフを再利用している感触が否めない。映像上の統一性もなく、いくつかの印象的な構図も全体のコンテクストを強力に支持するものではない。

ルー・ランダーズ監督の『クライム・インク(Crime, Inc., 1945)』になると、映像上の工夫はなく、安っぽいセットについてもあえて隠蔽することなく、ひたすらマスターショットを軸にプロットを展開することに終止している。クローズアップは少なく、心理的な側面よりもアクションが主体となる。特に目立つのは、新聞記事を多用してプロットの駆動力にしていることだ。映像の革命性など微塵もないが、むしろこの30年代に確立されたプロット駆動の手法が、40年代のポヴァティ・ロウを経て、後のTVの映像技法に吸収されていく、と考えると、こういった映画の存在は映像史の観点からは、極めて当たり前であるがゆえに見落とされがちな側面であろう。

ヴァーノン・ケイス監督の『危険な侵入者(Dangerous Intruder, 1945)』、エドガー・G・ウルマー監督の『奇妙な幻影(Strange Illusion, 1945)』などもやはり典型的なPRC作品で、マスターショットを軸にシーンが形成され、ほぼリニアなナラティブがアクションを契機に駆動される。『奇妙な幻影』はオープニングに興味深い悪夢のシーケンスが挿入されているものの、物語の発話の契機に過ぎず、「予知夢」という未来へのフラッシュバックのポテンシャルを活かしきれていない。いったん夢から覚めてしまうとリニアなナラティブに乗っ取られてしまい、むしろ予知夢が後知恵としてよりも、一種のネタバレとして機能してしまっている感がある。同じくウルマーの『クラブ・ハバナ(Club Havana, 1945)』は、ナイトクラブを舞台にした群像劇である。セット、特に半透明の巨大なガラススクリーンを配したステージデザインは確かに圧巻であるが、そこで起きるストーリーはいささか陳腐である。

当時のPRCの作品では、多くの作品がリニアなナラティブに支えられ、マスターショットとごく少ないクローズアップでシーンが形成されるのが一般的なスタイルだ。しかもセットの「安っぽさ」を気にもせず、まんべんなく照明を当てて撮影されたものが多い。そんななかでも、陰影や霧で覆い隠し、構図や照明で物語を語ろうとしたのは、ウルマーとニューフィールドの二人だが、この二人でさえも脚本の出来不出来に大きく左右されている。

特にPRCという製作会社に特徴的なこととして念頭においておく必要があるのは、PRCは他のスタジオと違って定額レンタルで映画を供給していたという点である。つまり、いくら映画がヒットしても、その売上増加分は映画館のものとなり、PRCには常にレンタル定額しか入ってこないのである。ウィーラー・ディクソンによれば、広告や経費を除いた実際の利幅は想像を絶するほど低く、西部劇映画においては1本1,000ドルの利益しかでないものもあったという。この状況下では、映画に製作費をかけることはおろか、より良いヒット作品を作るインセンティブはほとんどない。話題になって客が入っても、PRCには旨味がなく、スタッフや俳優たちのギャラが上がるわけでもない。PRCのブランド力は多少の話題作品で向上したりはしない。プロデューサーや監督たちにとっては、苦労してショットを作り上げても、それがなにか新しい機会につながっていくということは皆無だったのである。

こういった「ポヴァティ・ロウの最下層」という製作コンテクストのなかで『恐怖のまわり道』は生まれたのである。

本当に運命の仕業なのか

PRCの作品を俯瞰したとき、『恐怖のまわり道』の最大の特徴は、やはりその語り口にあるといえる。まず、フラッシュバックという手法が実に重要な役割を果たしているのだが、PRCの同時代の作品ではフラッシュバック形式のナラティブは少ない。ハリウッドが1940年代に奇妙ともいえるほどフラッシュバックにこだわっていたことを考えると、PRCのリニア・ナラティブに固執したアプローチはやや特異(あるいは時代遅れ)だったであろう。『恐怖のまわり道』は、この点において、アイディアの段階で既にPRCの作品として異質だった。1944年12月にPCAに提出したシノプシスでも、また1945年5月の日付のあるアン・サヴェージ所有の当初の脚本(この段階ではルー・ランダーズが監督としてクレジットされている)でも、フラッシュバック(シノプシスでは「カットバック」と呼んでいる)の手法をとっていた。ウルマーがこの映画に参加する以前から、ネバダのダイナーから始まり、アル・ロバーツのボイスオーバーの語りでフラッシュバックが駆動されていくことは決められていたのである。この点においては、脚本のマーティン・ゴールドスミス、マーティン・ムーニーの寄与を評価すべきであろう。これは、特にゴールドスミスが、ジェームズ・ケインに強いライバル心を燃やし、当時のパルプ小説のスタイルを極めて強く意識していたこと、そしてデヴィッド・ボードウェルも指摘しているように、1930年代にはほとんど顧みられることのなかったフラッシュバックの技法が1940年を境に突如流行し始めたこと、などが背景にあるだろう。

特に『恐怖のまわり道』のフラッシュバックを考えるとき、その話者 ―――すなわち、アル・ロバーツ――― が「信頼できない話者」であるかもしれないことは念頭に置かなければならない。このことを最初に示唆したのは、アンドリュー・ブリトンである。すなわち、この作品で語られ、示される出来事は、アルの記憶から、アルの意識の中で語られる物語であり、必ずしも事実ではないかもしれないのだ。そのきっかけとして、アルの記憶で語られるスーとの関係と、実際スーとのあいだで起きたこと ―――スーがハリウッドへ移って名声を求めたこと――― から推察されるアルとスーの間柄に齟齬がある、とブリトンは指摘している。このかき消すことのできない懸念によって、物語全体は運命に翻弄された男の悪夢の回想というより、自己の世界観に偏執した男の歪んだ認知の世界かもしれない、という可能性が生まれてくる。それまでハリウッド映画は、主観のあやふやさを様々な形で表現してきたが、主観的世界と客観的事実の世界の境界を意図的に暈して曖昧にすることが1940年代には行われるようになった。『悪魔の往く町』で取り上げたサイレンの例はまさしくその際たるものだ。『恐怖のまわり道』での主観的世界のあやふやさは、シノプシスの段階でも既に見られる。しかし、ウルマーの演出の手法が、境界の曖昧さ、主観の歪みを、より凝結した、荒い手触りのあるものとして提示しているのは間違いない。

とくに秀逸なシーンとして、アルがドア越しにヴェラを殺害する場面が挙げられるだろう。アルはとりつかれたように電話線を引っ張りドアの向こうのヴェラに電話をかけさせまいとする。しかし、ヴェラはなぜか電話線を自らの首に巻いていたのだ。アルは、部屋に突入し、そこで自分の腕でヴェラを絞め殺したことを知る。我々は彼のPOVショットらしきものを見る。それは部屋のなかのなにかを見るたびに、一瞬フォーカスを失い、また取り戻す。これを繰り返していく。これはそのときにアルの網膜に映った像の再現ではなく、アルの心のなかで再構成された記憶の断片なのだ。フラッシュバックのなかで立ち現れる風景は、アルの記憶を再構成したものであって、客観的な事実の描写ではない。アルのなかに入り込んでいくこの描写は、『恐怖のまわり道』の徹底した主観性とそのあやふやさをより際立ったものにしている。アルがスーとの夜を回想するとき、ウルマーは陰影ではなく、霧で覆ったことも、あやふやさの表出に一役買っている。

PRCの他の監督は、主観のアプローチをとることは殆ど無い。マーティン・スコセッシが「あまりに厳しい」とまで評したサム・ニューフィールドに至っては、徹底的な外からの視野、登場人物たちをとことん突き放した描写が著しく際立っている。登場人物たちから乖離した、冷めきった視点からの描写は、『殺人の弁明』のように裏切りと嘘に満ちた世界を描く際には非常に効果的に働く。ニューフィールドにしても、ウルマーにしても、より良いヒット作を手がけることとは関係なく、納得行く映画を作り続けようとしていただけかもしれない。『恐怖のまわり道』はそんななかでも奇跡的に脚本に恵まれたケースだということができよう。

Links

PRCは1950年代にライブラリをTVシンジケートに売却、その後著作権は更新させることがなかったため、大部分の映画が著作権切れになっている。『恐怖のまわり道』も著作権が切れ、パブリック・ドメインにある。Archive.orgのサイトにいくつかアップロードされているが、これが最も映像画質が良いようだ。

モーション・ピクチャー・アカデミーのサイトで、『恐怖のまわり道』についてのPCAとPRCの往復書簡のオリジナルを閲覧できる。

Janus Filmが『恐怖のまわり道』の4K修復デジタル化を進めている。ここではニューヨークの近代美術館の16mmプリント、シネマテーク・フランセーズの35mmプリント、ベルギー王立シネマテークの35mmナイトレートプリントを使用すると報じられている。ウェイド・ウィリアムズのカメラネガティブはリストされていない。

『まわり道』低予算の工夫

Data

PRC配給 11/16/1945 公開
B&W 1.37:1
68 min

製作レオン・フロムケス
Leon Fromkess
出演トム・ニール
Tom Neal
監督エドガー・G・ウルマー
Edgar G. Ulmer
アン・サヴェージ
Ann Savage
原作・脚本マーティン・ゴールドスミス
Martin Goldsmith
クローディア・ドレイク
Claudia Drake
脚本マーティン・ムーニー
Martin Mooney
エドムンド・マクドナルド
Edmund MacDonald
撮影ベンジャミン・H・クライン
Benjamin H. Kline
音楽レオ・エルドディー
Leo Erdody
編集ジョージ・マクガイア
George McGuire

 

Notes

(注1)

この撮影用脚本はLisa Morton、Kent Adamson著の「Savage Detours: The Life and Work of Ann Savage(McFarland, 2009)」の付録に収録されている。

(注2)

信じられないことに、『殺人の弁明』の製作時仮タイトルは「Single Indemnity」であった。「Cinema at Margins」の著者、ウィーラー・ディクソンによれば、パラマウントが差止命令を行使、今でも上映・配給ができないという。個人の所有プリントからおこされたDVDブートレッグ市場に出回っている。しかし、Motion Picture Bulletinなどによれば、1947年頃までレンタルでプリントが地方の映画館に供給されていたようだ。

References

[1] D. Bordwell, Reinventing Hollywood: How 1940s Filmmakers Changed Movie Storytelling. University of Chicago Press, 2017.
[2] A. Britton, “Detour,” in The Book of Film Noir, 1st edition., I. Cameron, Ed. New York: Continuum Intl Pub Group, 1994.
[3] W. Dixon, Cinema at the Margins. Anthem Press, 2013.
[4] G. Erickson, “Fate Seeks the Loser: Edgar G. Ulmer’s Detour (1945),” in Film Noir Reader 4, A. Silver and J. Ursini, Eds. Hal Leonard Corporation, 2004.
[5] B. Herzogenrath, The Films of Edgar G. Ulmer. Scarecrow Press, 2009.
[6] N. Isenberg, Detour. British Film Institute, 2008.
[7] N. W. Isenberg, Edgar G. Ulmer: A Filmmaker at the Margins. Univ of California Press, 2014.
[8] A. Lyons, Death on the Cheap: The Lost B Movies of Film Noir. Da Capo Press, 2000.
[9] L. Morton and K. Adamson, Savage Detours: The Life and Work of Ann Savage. McFarland, 2009.
[10] G. Rhodes, Edgar G. Ulmer: Detour on Poverty Row. Rowman & Littlefield, 2009.
[11] E. Robson, Film Noir: A Critical Guide To 1940s & 1950s Hollywood Noir. Dutch Tilt Publishing, 2016.
[12] 吉田広明, B級ノワール論: ハリウッド転換期の巨匠たち. 作品社, 2008.
[13] シネクラブ時代: アテネ・フランセ文化センター・トークセッション. フィルムアート社, 1990.